1920 年代には無線通信機利用が盛んになり、混信を避けるため,基準となる物指しの必要性を痛感するようになった。そこで国際電気通信会議準備技術委員会(CCIRの前身)は、周波数の世界共通標準を実現することの重要性を認め、早くも1921(大正 10)年 6 月にはパリにおいて国際周波数標準器設定の必要性を提案し論議している。周波数標準設定問題の始まりである。我が国においては,これを受けた形で1922(大正11)年、文部省の学術研究会議内に逓信省、陸軍、海軍、民間も参加して電波研究委員会が設立され国家プロジェクトとしてまとまる機運が見えた。1940(昭和 15)年 1 月には、逓信省告示第一号により公式に標準電波が発射されている。
当時、「秒」の決定は文部省東京大学天文台の所掌であった。この点を重視しながら、総合施設の建設問題が種々検討された結果、場所は東京都北多摩郡小金井町小長久保(現在の小金井市緑町)に決定(1948(昭和 23)年)した。途中、終戦を挟むが1950 年頃までの建設現場は、図2 でその片りんが伺えるように周辺は栗林と一面畑の中に農家が点在するといった、村から町になって間もなくの人口一万足らずの場所であった。
周波数標準の物指しとしての確かさへの要求が国の内外で高まってきた中、その総合施設の体制強化のため当時一係であった逓信省電波局観測課標準係へ約 10 人の若い新卒の人材が投入され、事務部門を含めて 50 数人の大世帯となった。指導者松本喜十郎氏は網島毅門下の俊秀であり、戦前からこのプロジェクトに精通して実務を遂行してきた行政畑の勝れた技術者であった。管理者として若い人を生かす絶妙な人員配置をして間もなく90人を超す課に増員される標準課の課長として総合施設完成の基礎を作った。すなわち、水晶振動子の研究開発、標準発振器回路の研究、それに続く原子標準の研究並びに長・短波帯標準電波発射の諸体制を確立した。その体制の中、研究開発をリードした人々は前期水晶発振器からアンモニア吸収形原子標準まで長竹孟氏、水晶発振器及び精密測定の村主行康氏、宮島貞光氏、水晶振動子研究開発に没頭した蛭田饒博士、また原子標準の研究開発に一生を捧げた佐分利義和氏であった。
その後、1951(昭和 26)年文部省の総合研究で取り上げられ,大学の工学部・理学部、マイクロ波関連メーカー、天文台、電気試験所なども加わり、延べ 9年にわたる「原子制御精密周波数標準」委員会が発足した。また同じ時期逓信省は原子時計研究に関する諮問を出している。電波研究所はその先頭に立って研究を進め、アンモニアメーザ、水素メーザ、セシウムメーザ、光格子へと研究開発が進んで来ている。
周波数標準と周波数標準器の歴史的背景、開発の歴史は、原田喜久雄氏の記事に詳しく記述されている。
【参考資料1】原田喜久雄、「日本原子標準を支える原子標準~水素メーザの夜明け~」、通信ソサイエティマガジン No.21, 2012
また、当時の標準電波設備などは以下の資料で紹介されています。
【参考資料2】周波数標準と標準電波施設一覧、 電波研究所周波数標準部 (当時のパンフレットと思われる。下の左の写真は表紙。)
下の写真は参考委資料よりの転載。