南極観測

1957‒1958年の国際地球観測年(IGY)の活動の一環として幕を開けた日本の南極観測において、電波研究所(現NICT)は黎明期から継続的に隊員を南極に派遣し、電離圏観測を実施してきました。

1956年(昭和31年)、第1次隊が東オングル島に上陸し、付近を昭和基地と命名して4棟の建物を建設し、越冬を開始してから、既に60年以上が経過しています。現在の昭和基地は建物も50棟程度建ち、居住施設は格段に改善され、観測施設も近代化し数々の輝かしい成果をあげています。

第1次隊では、南極観測船「宗谷」の船上にイオノゾンデとアンテナを設置し、南極及びその移動中の航路において電離圏観測を実施しました。昭和基地での定常観測は第3次隊(1959年)からスタートし、それから毎回南極に隊員を派遣して定常観測を継続しています。この間、イオノゾンデを用いた電離圏の垂直観測に加え、オーロラレーダ、リオメータ、短波電界強度測定、VLF電波測定等、様々な観測を昭和基地において実施し、オーロラ粒子降り込みの2次元分布特性や太陽活動サイクルにおける電波オーロラの発生頻度特性の解明などの成果を挙げてきました。

【NICT WEBサイト】昭和基地における電離層観測の歴史、電離層定常観測機の変遷、隊員リストが掲載されています。
昭和31年の第1次南極観測隊、電離層定常部門を担当者は以下の3名でした。

1956昭和31電離層大瀬正美第一部電離層課(夏)
会田一夫第一部電離層課(夏)
岡本裕充第一部電離層課(夏)

【NICT WEBサイト】情報通信研究機構より輩出した隊員が現地で取得した観測データや画像が紹介されている。

【参考資料】長妻 努、「南極昭和基地における電離層定常観測」、NICTニュース、2013.4
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大瀬正美氏の記事より抜粋
大瀬正美 「南極観測の想い出」、電波研究所ニュース、1983、No.87 、6

 昭和19年には,電波物理研究所職員の中で現役入隊す る青年が14名いた。その中で私は一番早く9月に入隊し た。幸い内地の教育隊に残ったので終戦後,昭和20年10 月に復員して復職した。その頃の電波物理研究所は上野 毛の多摩美術学校内にあったが、戦災でほとんど焼失し ていた。昭和20年12月,陸軍行政本部、第5陸軍技術研 究所が移管されて、手動型電離層観測機と共に第9棟 (現在南極事務室のある建物)に移転してきた。昭和21年 1月,当時電離層課長であった青野さんから「お前はラ バウルに行く予定になっていたから、日本の最南端であ る九州鹿児島観測所の創設に行くように」と言われた。

 昭和21年3月,現地調査に行き各地を調査した結果,指宿海軍航空隊山川送信所跡(現在の山川電波観測所の場 所)に決定したわけである。一旦帰京して手動型電離層観測機の部品を集めて組み立てを行った。(当時新発田, 深浦等各地方観測所開設のため機器の調整をしたのも第 9棟であった)。そして7月山川に出発した。最初の建 設期は昼間は生活面の水道工事その他建物補修等の重労 働が続き、夜になって観測機器の調整をはじめる毎日で あった。昭和28年1月国分寺へ転勤になり、しばらくは 電離層課電波伝搬係に席を置いていた。昭和30年、日本 の南極観測参加が決定した頃、再び青野さんから「お前 は南方を希望していたが、もっと南の南極に行く気はな いか」と言われて早速希望したことが、以後26年間南極 観測に関係するようになった始まりである。そして1/4 世紀を経た現在も南極事務室は第9棟にあり、遂に近代 建築の建物に席を置くことがなかった。

 第1次南極観測隊が出発した昭和31年頃は、日本もよ うやく高度経済成長時代が始まった時期で戦後の時代 はまだ抜けきっていなかった。
 第1次観測船宗谷による広範囲な電離層移動観測は全く経験がなく、色々な準備のため8月頃から11月8日 の出港まで、ほとんど浅野ドックの宗谷に泊り込んで電 離層観測機の調整を行った。本番の船上観測は南極へ行 くというのに、連日印度洋の暑さと船の動揺の連続であ ったが若さで乗り切ることができた。氷海での苦闘も 12時間交替の物資輸送作業もすべて順調に進み昭和基地 が建設された。11名の越冬隊を残せたことは幸運の一言 につきよう。この第1次の成功があったればこそ、今日 ある南極観測の基礎が確立されだともいえよう。昭和37 年から40年まで3年9か月の間、宗谷の老朽化に伴い南 極観測は一時中断のやむなきにいたったが、第7次から 「ふじ」の就航により南極観測は年毎に堅実な発展を遂 げることができた。

南極での電離層観測
(1960年パンフレット)

南極での電離層観測
(1960年パンフレット)

南極観測写真ギャラリー

写真なし

南極越冬の思い出

前 野 英 生,小 川 忠 彦


我々第26次日本南極地域観測隊(越冬隊35名,夏 隊13名)は,南極観測船「しらせ」に乗船し、昭和59 年11月14日に職場の人や家族,友人ら多数に見送ら れ,東京晴海埠頭を出港した。途中, オーストラリ アのフリーマントルに寄港して食料等を積み込んだ 後,暴風圏を通り,一路南極へと向かった。

今次隊はまず最初にプライド湾へ向かい,セール ロンダーネ地域(昭和基地の西方約670㎞)に新観 測拠点を建設した。2週間にわたる建設作業は順調 に進み,新観測拠点の名前は「あすか」と命名され た。その後,プリンスオラフ海岸にある昭和基地に 到着し,南極での生活が始まった。

昭和基地では,1月の夏期間に仮作業棟の建設や ロケットランチャー,アンテナ等の建設作業が朝早 くから深夜まで毎日続き,身体がくたくたになった。

「しらせ」が離岸し,越冬に入ると,専門の仕事 だけではなく,いろいろな仕事を手伝った。その中 には,オーロラ観測用のロケットや気象用のロケッ トの打ち上げ,大気球の実験等があった。中でも, オーロラ観測用ロケットのピンク色をした炎の飛跡 が同じ色に輝くオーロラに向けてまっすぐに突入し ていくさまは今でも脳裏に焼き着いている。冬の間 の生活用水を確保するための全員作業として,つる はしを使って割った氷山の氷を,2トンぞりで新発 電棟の130klタンクに入れる作業が週に1,2回あった。 水を使うにも大変な労力を要する南極の生活から, 水の大切さを改めて感じさせられた。

昨年開催された筑波科学万博では,KDDのテレ コムランド会場と南極昭和基地の間で幾度かテレビ 静止画伝送実験が行われた。内容は,基地での生活 と仕事の話やクイズ,家族との会話等であり,2週 間に一度の交信を待ち遠しかったことが思い出され る。200発の花火の打ち上げで始まった真冬の祭典 「ミッドウインター祭」では,3日間にわたりフラン ス料理フルコース,スポーツ大会,カラオケ大会, 演芸大会,娯楽大会,模擬店などの行事が行われた。 中でも演芸大会では,1か月も前から極秘に練習し た演劇やコーラスなどが披露され楽しい一時であっ た。

7月13日,太陽がふたたび顔を出し始めると生物 センサス,池の温度分布・水質調査,三角点測量調 査等が始まった。その中でも生物センサスは毎週行 われた。アデリーペンギンのルッカリー(集団営巣 地)に行き,産卵,子の成長を見ると南極の自然に生 きる動物の力強さを感じた。また,同時にペンギン やアザラシ達の可愛らしいしぐさは私達の心をいや してくれた。その外,誕生会,室内ゲーム,スポー ツ大会,新聞作り,南極大学等も南極生活を楽しい ものにしてくれた。南極越冬は,苦しい作業より楽 しかった体験の方がより強く思い出される。

(電波部 電磁圏伝搬研究室)

昭和61年1月の昭和基地

【資料】RRLニュース、1986.7 No.124