計算機・計算処理部

情報処理研究室の誕生と変遷

 計算機研究室の濫しょうは昭和36年頃,第1号の電子 計算機導入時にあります。この時期は、国際地球観測年 後の観測IBMカード処理,雑音研究,通信方式研究,電 離層観測(ボトムサイド)データ処理解析及びそれらに 付随する科学技術計算などの要求から,計算機導入が真 剣に討議されてきました。奇しくも巨大科学の一つとし て頭角を現した宇宙通信研究と時を一にし,30mの直径 を持つ大パラボラアンテナを建設するための予算が初め て認められた年に当たります。今日の計算機進歩の一因 が宇宙開発にあることを考えれば当然と言えましょうが, 以後当所の計算機導入過程に大きな影を映すことになり, 組織としての名称は測定装置研究室,情報処理研究室(旧) と変わって行きますが,当研究室の性格はこの間に決定 づけられているといえます。

昭和42年6月,衛星開発に力を入れることを目的とし て当所は組織の大変革を行いました。この時部制が敷か れ情報処理部に計算機研究室が誕生しました。初代室長 は旧情報処理研究室長で新情報処理部長の尾方義春氏 (前特別研究官)が兼務(42年6月~44年10月)されました。 室員は旧情報処理研究室から5名,旧機器課から1名, 旧電波物理研究室から1名計7名でした。当時研究所に は2台の計算機が稼動していましたが,組織変更によっ て多くのプロジェクトと共に2台の計算機の運用が託さ れたわけです。

【資料】計算機研究室長 原田 喜久男、「研究室めぐり-その3 情報処理部計算機研究室」、電波研究所ニュース、1979.5 No.38

情報管理部電波観測管理室

組織改正で,新たに電波観測管理室となった我々 の職場は,どんなことをしているところなのか,和 名からはすぐにぴーんとこないのではないかと思わ れますが,英語ではIonospheric Observation Sectionと呼ばれるところ,というとこれは余り説 明しなくても中身がおわかり頂けそうに思われます。

電離層観測は,電波研究所発足以前から行われて いる業務であり,連綿として継続している老舗の稼 業とでもいうべき仕事です。

人工衛星などが情報伝達手段として発達してきて いる現在,短波通信の占める相対的な重要性が低下 し,従って電離層情報を必要とする社会的なニーズ も比較的少なくなってはきています。しかし短波通 信は,信頼件に問題はあるものの,手軽で経済的で あるなどの理由で今でも広く利用されています。

我が宇宙船地球号は,母なる太陽の惑星として永 遠の航行を続けている。電離層の観測は,その大切 な環境の一部を常に監視していることであり,太陽 地球間の物理を主題とする一大ロマンを書きあげる 壮挙の1端を担うことでもあるので,国立研究機関 に課せられた大事な仕事と密かに自負しています。

そんな訳で,武蔵野の面影を残す雑木林に囲まれ た閑静な建物で、昼夜の別なく毎日15分間隔で電離 層の観測を行ってきています。観測は自動的に行わ れ,結果は35㎜のフィルムに記録されます。

このフィルムから電離層を代表する特性値を読取 り,Ionspheric Data in Japan(電離層月報)に まとめあげることも稼業の一部ですが,読取り作業 が可成り大変なので,電子計算機で自動的に読取ら せるシステムを完成させるための努力を,通信技術 部信号処理研究室と一緒になってすすめています。 これが目出度く完成しますと,国分寺はもちろん, 稚内,秋田,山川,沖縄のデータも電話回線で送ら れてきて自動処理されることになります。

電波研究所は,東南アジアで観測された電離層デ ータを集積し,学術研究に供する電離層世界資料セ ンターC2を設置していますが,この運用も当室の “なりわい”になっています。

さらに電波観測管理室は,これまでの電波予報研 究室の業務を引継いでいますので,3か月先の“電 波予報”を発行するための資料作成も毎月行ってい ますが,来年度には1冊で短波回線の電波予報のわ かる“新版電波予報”に切替える計画が策定された ので,そのための準備も行っています。

老舗の“のれん”を守る面々は,合歓垣(ただの 巨人ファン),小泉(昔は名?キャッチャー),吹留 (植木・焼物相談承り所),栗城(ダサイ奥多摩ハィ カー),竹内(長持ち唄の真打),安藤(三段を窺う碁 キチ),永山(多趣味・特別釣キチ),野崎(南極の次 はスペースコロニー?),猪木(フランスワインなら 本場仕込み)の9人と作業契約会社の永井(習字・ 民謡がおはこ)です。


前列左から竹内、吹留、栗崎、小泉、合歓垣
後列左から安藤、永山、野崎、猪木、永井

【資料】栗城 功、「老舗の稼業」、CRL NEWS 1985.7 No.112