追憶の断章-杉浦君

追憶の断章ー杉浦君

           2020年7月7日 畚野 信義

杉浦君が電波研究所へ入って来たのは大阪万博の少し前だった。私は電離気体研究室(既に電離層衛星研究室と名前が変わっていた気がするが)にいて、一年の1/3くらいは当時の東大宇宙研の観測ロケットや科学衛星の実験で鹿児島の内之浦へ入り浸っていた頃だった。当時の所長はアイツらが実験に行くと何時帰ってくるか分からんとボヤイテいたそうである。

杉浦君とは私の下の方の弟が福井大学で彼の少し先輩だったことが話のキッカケで、彼の入所後割合スグ親しくなった。杉浦君は福井大から阪大修士を経て来ており、私の弟は大男でラグビーにのめり込み一年ダブっていたので、ヒョットして知っているかもと声をかけたのではなかったかと思う。電離気体研究室はスペースチャンバーなどの大きな重い真空装置が多く、当時の1号館の西の端の一階にあったので彼はよく後ろ(2号館側)の窓から実験室に入って来ていた。

何事もハッキリものを言うこともお互い気に入っていたというかウマが合っていたのだろう。私が40歳台後半で詩吟を始めたのも彼が気管支が弱いにもかかわらずそれを鍛えるためか狂言をやっていると聞いたこともひとつのキッカケだった。私は6歳で喘息を発症し、小学校は一年落第し、その後も毎年の気温の下がり始める8月下旬には発作が始まり、秋の終りには酷くなり死にかけていた。秋の研究発表会に出席が出来ず、手代木君に代役を頼んだこともあった。その時は自宅のハウスダストも原因と言われて構内寮の水津君の部屋に転がり込んでいて、それを石田さんが確かめに来たことを思い出す。更に40歳半ばの頃は気管支の炎症からよく肺炎を起こしていた。喘息は50歳台後半に消えてそれ以後比較的健康になり、今まで(85歳)思わぬ長生きをしている。

日本の国立研究所が国の施策の技術的支援を行う組織として設立された時からの体質をそのまま引きずり、本当の研究をやろうとする気概のある所員が少ないことを改善しようと、私は企画部長や所長の頃、「学位を取らないで研究をするのは、無免許で運転をやるようなものだ」と強く所員に呼びかけていた。何人か(二人の高卒も含め)が学位を取ってくれた。少しずつ研究所の雰囲気が変わって行ったと自負している。

杉浦君が学位を取ったのは私がCRLを退任してアメリカ(NASA,テキサスA&M大、メリーランド大)で働いている時だった。メリーランドの自宅まで送ってくれた学位論文の謝辞には「畚野さんにヤカマシク言われたから取った」と書いてくれていた。その後帰国のための荷物の発送のドサクサ(所沢の自宅、奈良の実家、赴任する東大駒場の3カ所へ分送)で行方が分からなくなったことを今も残念に思っている。

その後東北大へ移ってからの杉浦君の活躍は目覚ましいものだった。そして今度は彼が後輩を叱咤激励して学位を取らせてくれた。一昨年には3人目の高卒博士として篠塚君が学位を取った。篠塚君は昔(1980年代)一時私と一緒に働いたことがある。その能力を買い私が編集責任者をしていた学会誌にいくつかの論文を書いて貰った。その一つは我が国の合成開口レーダの利用の方向に画期的な変化を与えた。しかし彼が70歳を過ぎて学位を取るとは思っていなかった。杉浦君が励まし、東北大にも働きかけてくれたおかげだったと思っている。非常にうれしく国分寺でささやかな祝賀会を設けたが杉浦君は治療のため出席出来なかった。

膵臓がんはがんの中でも治癒率が非常に低いのは、発見するのが難しく手遅れになることが原因と言われている。杉浦君は別の何かの検査の際にタマタマ早期に見つかったと聞いて期待していた。

10年ほど前に通信総合研究所の元所員で関西の大学等で活躍している人や退職後関西に在住している人たちで「CRL関西の会」を始めた。以来杉浦君は殆ど毎回出席して元気に大声で主役を果たしてくれていた。今年は運良くコロナ騒ぎが激しくなる直前の2月中旬に大阪で開くことになった。杉浦君は新しい治療を始めたので欠席ということだったが、直前になって出席してくれることになった。その席では体調の悪さなど感じられないほど何時ものように最初から最後まで大きな声で元気にイロイロ話してくれた。新しい論文を書いているという話もしていた。しかし翌日には昔のことを書いたお礼のメイルをくれた。悪い予感予感がした。亡くなってから篠塚君が送ってくれた客員をしている京大や仕事の関連の組織や担当者に当てた最近の杉浦君のいくつかのメイルのコピーを見ると身辺整理を始めながらも新しい論文を書く計画(というよりテーマと予定)も書かれていた。

私はこれほども気を強く持って時間を有効に使い、最後を迎えられるか自信がない。

杉浦君の精神力に脱帽している。

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【杉浦君からの最後のメイル】(2020/02/17 11:30:52)

阪井さん

会場のお世話と写真、有り難うございます。

皆様 ————————————

一人だけ貧乏神のように影が薄く、楽しい雰囲気を壊しているので、本当に申し訳ありません。

先週から抗がん剤を変えたので、次回お会いできれば髪が生えていると思います。

久しぶりにお目に掛かることができ、本当に楽しかったです。

畚野さんが1980年代後半に巨額の補正予算を確保し、

さらに関西支所を創設してから、研究所の雰囲気が一遍に変わりました。

トップによって組織が大きく変わること実感しました。

私が50歳を過ぎて博士号をとる気になったのも畚野さんのおかげです。

本当に有り難うございます。

来年も皆様とお会いできることを切望致しております。

皆様の御健勝と御活躍を心からお祈り申し上げます。 拝

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