岩岡時代からの船川様の思い出

新年早々に、このホームページの前身であるNICTプラザで、船川様の訃報を知りました。大変衝撃を受けました。

船川様には、岩岡時代からご指導、御厚誼を頂きながら、普段から何か恩返ししなければという気持ちさえ持ち合わせてこなかったことに、後悔の念というか、忸怩たる思いがありました。せめて「岩岡時代からの船川様の思い出」と題した追悼文を寄稿させて頂いて、万分の一のお返しをしたいと思います。

昭和32年4月1日、高校卒業と同時に近畿電波監理局 監視部 (神戸市垂水区岩岡町岩岡(通称、赤坂))に採用されました。その跡地は現在西区のNICT未来ICT研究所になっているのだと思います。

当時の庁舎は木造平屋で、入り口から順に管理課、技術課、監視第一課がありました。管理課や技術課の職員と監視一課の係長以上の職員は平日勤務でしたが、私は第一課の国際監視係に配属され、24時間三交代勤務に組み込まれました。国内外から発射されている短波帯以下の電波を片端から受信し、主にモールス信号で発射されているコールサインからその無線局を特定し、電波の質を測定する業務です。

輪番交代勤務者が大半でしたので、職員官舎、共同風呂、独身寮とその食堂は、庁舎をはさんで東西に分かれて近い所にありました。ある朝食堂にいたとき、役所支給の作業服姿で食堂のガラス戸を静かに開けて入って来られた人がいました。誰だろうと訝っていましたら、横にいた先輩が小声で、あの人は「東大出の船川さんだよ」と教えてくれました。この時が、船川様(以下、親しみを込めて「船川さん」と呼ばせて頂きます。)をお見掛けした最初でした。

正直、神戸市といっても、こんな辺鄙な田舎の職場に「東大出」の人がいるというのは驚きでした。

船川さんは技術課の技術係長をされていました。技術係の担務をよく知りませんでしたが、当時、発射電波の到来方向を測定する「針状指示方式の方向探知機」システムを移設する作業をされておられ、最終調整に苦慮されておられたようです。他に、単発の本省指示による短波の地球規模的な「対蹠点効果」の伝搬調査にも監視一課と協働されていました。南米地域の無線局電波が受信されるかの調査でした。真夜中に監視をしていましたら、船川さんが、そっと後ろに来て様子を見にこられたのでした。

この年10月4日、ソ連の無人人工衛星が打ち上げられ岩岡でも大騒ぎになりました。8MHzのA2電波の断続波(ピーピーという音で)が、約60分強の周期で毎回、10分程度の時間受信でき、この間ドップラー周波数を必死になって測定しました。これらのデータから、船川さんは衛星軌道の推定をされておられたのではないでしょうか。

また、船川さんは、その頃 IREから発行された「SSB特集号」を技術課の職員に奨められるなど、少しでもアカデミックな雰囲気を醸成されておられたようでした。

ご家庭では女のお子さんがおられ、下のお子さんはまだよちよち歩きでしたが、日曜日には構内のテニスコートで歩かせ、そばで目を細めて見守っておられました。

非常に残念でお気の毒だったのは思わぬ災難が船川さんに降りかかったことでした。官舎に供給するポンプに不具合が生じたので急遽ポンプ小屋に行かれてモータのベルトを点検されていたら、急に回り出したため指先を挟まれる大けがをされたそうです。

当時、勤務の合間は、まだ取得していなかった無線従事者資格(第1級無線技術士)の受験勉強をしており、代表的な参考書として、高周波工学はブロンウエル原著・岡村総吾先生訳の「極超短波工学」、周波数変調無線機器は染谷勲著「超短波移動無線」を使用しておりました。特に後著のFM変調表示式の直観的理解に苦しんでおりました。思い切って係長席におられた船川さんに教わりに行きましたら、快く図解で丁寧に説明をしてくださいました。これが船川さんとの私的な最初の出会いでした。

翌年4月、船川さんは電波研に変られ、私も大阪の監視第二課に転勤になりました。輪番勤務の傍ら夜間大学に通い、そこで卒論指導の松尾優先生に出会いました。松尾先生は、岡村先生が兼務されていた電波研・超高周波研究室の船川さんの前任者だったそうです。

卒業の翌年、待望の岡村総吾先生の研究室に、郵政省委託生として内地留学させてもらえることになりました。因みに、原田喜久男さんは、前々年度に電波研から留学されていました。研究室には、生き字引のような田宮寿美子さんがおられ、当時、東大教授であった田宮潤先生の奥様でした。田宮潤先生は船川さんと東大電気(弱電系)同級生であることや、船川さんが電波研に赴任されるにあたっては、岡村先生が直々に岩岡へ出向かれ勧められたことなどを話してくださいました。この東京滞在中に、電波研の船川さんの研究室を見学させて頂きました。小金井の電波研庁舎から極超短波を送信し、多摩丘陵に設置された反射板を介して戻った電波を受信して、長期間の降雨減衰を研究されておられたようです。

また、田無・保谷の船川さんのご自宅にお招きいただき、奥様のおいしいお料理を頂いたことが、いまも懐かしく思い出されます。お二人のお嬢さんはもう小学生になっておられました。後年、成人されてヨーロッパでお住まいと聞き及んだように記憶しております。

近畿電監から電波研への転勤実現には、10年以上の歳月がかかりましたので、残念ながら、船川さんの仕事でご指導を受ける機会はありませんでした。しかし、転勤してきた年に船川さんがNASDAにご栄転になられるにあたり行われた送別会に出席させて頂き、直接感謝の気持ちをお伝えできたことが唯一の救いでした。当日の夕刻から食堂南側広場に張り巡らされ赤白の提灯が灯り、船川さんには正面中央の椅子に腰かけられているなか、司会者の進行のもとに次々と参加者からのお別れのメッセージあり、歌ありとても素晴らしい電波研ならではの雰囲気でした。電波研というところは素晴らしいなあと思いました。印象に残っているのは、古濱さんが「故郷(ふるさと)」を堂々とした体躯で歌われたこと、終了後の後片付けの際、畚野さんが「食べ物と箸や皿とはきちんと区分するよう」に何回も指示されたことでした。

昭和53年に岡村先生が東大を定年退官され親睦会「岡村会」が発足し、毎年3月に神田学士会館で親睦会があり、船川さんは奥様を同伴されることが度々でした。会の終了後は、席を変えて船川さんを中心に親しいグループで団らんされるのが常でした。出席者が偉い先生方ばかりなので敷居が高かったのですが、原田さんと共に同席し、自分なりに船川さんが語られるいろいろな見識を吸収し、参考にさせて頂きました。

船川さんと最後にお会いしたのは平成25年10月31日、岡村先生のご葬儀があった阿佐ヶ谷の教会でした。帰りに、JR阿佐ヶ谷駅ホームで上り電車の船川さんを原田さんと共にお見送りしたのが、最後となりました。

その後、年賀状を差し上げるのが途絶えがちになり、昨年暮れも「船川さん お元気にされておられるかなあ」と思いながら、賀状を失礼しました。

船川さん、長い間大変お世話になりました。ありがとうございました。今はもう、天国で奥様と再会されておられることと思います。ご冥福をお祈り申し上げます。