船川さんの思い出

船川さんの思い出

岡本謙一

2020年の1月28日に、NICTプラザの皆様にメールで、「船川さんの思い出」を送信しました。その後、親睦会の幹事・事務局の皆様のご努力によって、Home Page に追悼のページが出来ましたので、いささか時期を失した感もありますが、多少の修正を加えて、以下の追悼文を投稿することにしました。

『親しく御付き合い頂いた方の訃報を聞くのは寂しいものです。手代木さんから船川さんご逝去のメール(2020年1月10日) を頂いた後、徳重さん、畚野さん、宮崎さん、古濱さんから、船川さんの思い出についてのメールを頂きました。その後、諸先輩からもメールが届くのかなと思って待っていたのですが、少し時間が経ってしまいましたので、誠に僭越ながら若輩者の私も船川さんの思い出について,僅かですが、語らせていただきます。』(2020年の1月28日のメールより)

その後、徳重さん、畚野さんの船川さんの心温まる追悼文がHome Pageに掲載されました。はずかしながら、私も枯れ木も山の賑わいという意味で参加させていただきます。

2018年1月22日に公私ともに大変お世話になった水津武さんが逝去されました。ご自宅まで弔問にお伺いしたのですが、その時にご家族から水津さんの電波研究所での研究略歴について纏めるようにご依頼を受けました。そのために少し集めた資料の中に、水津さんが居られた衛星研究部電離層衛星研究室の室長をされていた船川さんに関する記述も混じっていました。

古いことは知りませんが、手持ちの資料によれば、船川さんは、昭和48年1月20日に高比良 昭様の後任として衛星研究部電離層衛星研究室の室長に着任され、昭和49年4月1日に鹿島支所長として栄転されるまで、同室長をされていたようです。その後、昭和51年7月7日まで、鹿島支所長を務められ、宇宙開発事業団の追跡管制部長に移られたようです。

私は、昭和48年の4月に電波研究所に入所しました。配属は衛星研究部衛星管制研究室でした。居室は、今は取り壊された旧2号館三階の大部屋で、管制研究室の4名と電離層衛星研究室の船川さん、小川忠彦さんが同居していました。午後の3時になると亡くなった管制研究室長の中橋信弘さんの合図でラジオ体操をしていました。昼休みには北側の廊下の窓の下のテニスコートで、亡くなった三浦秀一さんたちが、キャッキャッ言って軟式テニスをされていました。今となっては、古き良き時代でした。

最初にお会いしたときは、船川さんは、ご自身が囚人服と言っておられた鼠色の作業服を着ておられました。私が神戸市出身ということで、話が弾み、出身高等学校は「神戸高校」だというと「一中」かと聞かれて随分と古いことをご存じだと、驚いた記憶があります。船川さんは、日当たりの良い南の隅の机に座られて、良く電話されていました。当時、信学会のアンテナ伝搬研究会の役員か何かをされていたのでしょうか。私の耳が悪いせいか、電話の相手の名前が、マンボさん、キツネガワさん、ムシアキ先生とか、聞いたことのない動物の様な名前ばかりで驚いた記憶があります。キツネガワさんというのは、喜連川さんということが後で分かりました。

当時、衛星研究部長だった川上さんが、何かの折に大部屋に来られて、冗談半分だったと思うのですが、「畚野君は首だ」と言われたときに、船川さんが、眼をパチパチさせて、「まあ、まあ」となだめて居られたことを思い出します。仔細はわかりませんが、当時の資料に「昭和49.3.23 畚野主任研究官、米国留学1か月延長」とありますから、何か関係があるのかもしれません。川上さんは、船川さんのことを「船川ちゃんは、うちの技師長だ」と言っておられましたので、船川さんのことを高く買っておられ、船川さんの言うことは何でも聞いたのではないかと思います。

私は、入所当時は、博士課程を終了したばかりでしたので、一年以内に博士論文の内容を学術雑誌に投稿し、受理されることが求められていました。大学でやっていたのは、物性基礎論で、就職後の衛星管制とは全く関係の無い内容でしたので、気が引けて、休日に出勤して、学術雑誌用に英文で論文を纏めていたのですが、ある日、休日に船川さんが部屋に入って来られて、「岡本君は、休みの日も来てるのか。論文を書くなら、勤務時間中にやったらいいのだ。休日は、休まないといけない」とかおっしゃったことを思い出します。

衛星研究部の飲み会か何かの折だったと思うのですが、隅の方で船川さんが、何か歌の様なものをぶつぶつと口ずさんで居られたのですが、私が、うっかりご詠歌ですか、と言ったらシャンソンだと笑いながら怒られたことがあります。船川さんに怒られても、少しも怒られた気がせず、むしろ温かい感じがした記憶があります。

その後始まったCS・BSの運用管制の仕事の関係で、鹿島支所に出張したとき、「岡本君も、鹿島に来て、現場で仕事をしないと、生きた知識が身に付かないのではないか」と言われたこともありました。畚野さんが中心となって行った船川さんの送別会のBBQのことも覚えています。船川さんは、「もう少し電波研に置いて頂けるかと思っていたのですが、今回NASDAに行くことになりました。……」と挨拶の中でおっしゃっていました。花火が派手にパンパンとなっていました。畚野さんは、自分は食べずに一生懸命肉を焼いておられました。後で聞いたところ、ボーイスカウトでもそうされるとのことでした。

CS・BS管制の打ち合わせの件で、当時浜松町の大門ビルにあったNASDAの追跡管制部にお邪魔したときも、船川さんは、追跡管制部長として暖かく出迎えてくださり、「NASDAの担当者と仲良くやってくれ」と言われたこともありました。その後、理事を経て副理事長になられましたが、私が浜松町のNASDAの本社での仕事の帰りに、突然お伺いしたときも、何時も気さくにお会い下さいました。熱帯降雨観測衛星(TRMM)搭載の降雨レーダのプロジェクトを立ち上げようとしていた時には、「岡本君も随分難しいことを始めたもんだね」、とか「畚野君には、どなられたよ」とか笑いながら言われました。また、ある時は、「副理事長というのは、理事さんの間の異なった意見の調整をやるのが仕事だ」とも言って居られました。

思うに、船川さんは、温かい人柄で、生涯、人と人の間に立ってその和を図ることに尽力されたのではないかと思います。

心から哀悼の意を表します。