第3回「私のプロファイル」 早川澄子 

早川 澄子 ①忘れられない終戦の年

 終戦から77年の8月15日、思いがけず親ぼく会副会長の大森さんからの「私のプロファイル」の連載依頼に唯々びっくり、まさに青天の霹靂。何のとりえもない私のプロファイルなんてやめた方がいいのではないかと自問自答が続きました。

 今までの長い人生、皆に支えられて生きて来られたことを思い、人生の来し方、行く末に、改めて思いを馳せる一番ふさわしい時期なのかもしれないと思い、お受けすることにいたしました。実は私ごとですが、2年半前主人が亡くなり、主人の資料等を整理しながら、私の分も片端から片付けてしまい資料不足が思いやられますが、そのことをご了承いただければと存じます。

 1945年の終戦の年の5月、母が単身で満州(現中国の東北部)から、釜山を経由し、下関ではなく新潟へ着きました。当時は空襲の激しい最中でしたが、同年4月、私が仙台の旧二高女に入学したための帰国でした。
 母はそのとき、白いご飯のおむすびをたくさんリュックに入れて持ち帰ったことが忘れられません。母は、新潟からの汽車の中で、車中乗り合わせた乗客の方からおむすびをいただいた折、返礼として満州からのみやげの菓子類を差し上げたところ、他のたくさんの乗客の方がその様子を見ていて、その方々がおむすびをくださった故、みやげの菓子類がおむすびに化けてしまったとのことでした。
 その頃の食糧事情は、菓子類はもとより、白いご飯にはお目にかかれない程悲惨な状況でしたので、新潟地方はお米があってうらやましいと思いながら、久々に皆で笑顔で食したことが忘れられません。当時は、冷蔵庫が無かったので、近所に分けてあげたことを覚えています。

 母は、満州に父を残しての一時帰国のつもりで一段落したら又渡満しようと思っていたようですが、日本の戦況は、日毎にあやしくなる一方で焦燥感にかられていた様子でした。
 その後、父あてに幾度となく手紙を出しても返事はなく、やがて終戦の8月15日を迎えるに至りました。翌年の1946年に入り父は終戦の年の12月21日に奉天(現 瀋陽市)で病死したことが知らされました。行年42歳でした。そのときの悲しかったこと、言葉では言い尽くせません。

 遡って1939年3月、丁度春分の日に、父は単身最初の任地先、満州の北部「札蘭屯」にある三井物産㈱同系列会社へ赴任しました。そのまま、以後一度も帰国する機会がありませんでした。優しかった父の望郷の念を思うとき、耐え難い心情にかられます。父と最後に別れた1939年3月21日は、親戚はじめ近所の方々が大勢見送りに来ていただいたことを覚えています。私は、小学1年を修了しようとしていたころでした。
 父が渡満してから1年後の4月、私が小3、妹は小2のとき、母も渡満しました。そのときから私と妹は、祖父母の許で日々をおくることになりました。

1939年1月 家族4人で撮った最後の写真
1940年 小学2年のとき
1941年 渡満した母からの写真

 北満では、学ぶ環境が不適当で心配であることが大きな理由だったようです。小2の妹にとって、母のいない淋しさは耐え難く、泣いてばかりいました。私も祖父母に隠れて共に涙を流しました。植物が水を欲するように、子供の成長期には親の愛が欠かせないように思います。母が渡満して間もなく、母の友人の子を、母が抱いている写真を送ってくれました。その写真を見て妹は、「おかあさんはよその子を抱いている。ずるい。」と言って悔しがりました。母も私たちのことを心配しながら過ごしていたと思います。

 母はその年の暮れ帰国し、3、4か月ほど共に過ごし、再び父の許へ帰って行きました。母は毎年帰国してくれました。祖父母は心から可愛がってくれました。祖母の祖父は、昔寺子屋で教えていた一番弟子を娘婿として迎えたとのこと。しかし、西南戦争で父親(娘婿)が亡くなり、その後、祖父と母親も流行の病で亡くなり一人ぼっちになったようです。祖母はドン底の悲しみから周りの人々に助けられて生きていることを話してくれました。

 祖母が子どもの頃に、遊びに来た友達が「あんたの世話になんかならない。誰の世話にもならない。」と言って帰ったとき、その様子を見ていた祖母の祖父から、「人は一人では生きていけない。まして何時何所で誰に助けてもらうかもしれない。絶対そんなことを言ってはならないよ。」と生前強く諭されたと、祖母が話してくれたのが強く印象に残っています。祖父母は、私と妹の養育に常に大きな責任を感じ、長幼の序とか他人に迷惑になるようなことは一切謹むようにと厳しい面もありました。私が小学3年から6年までの大事な時期に、祖父母の大きな愛に包まれて成長できたことは感謝です。

 

2022-11-12掲載

 

早川 澄子 ②二高女に入学

 1945年の終戦の年に二高女に入学しました。その7月は仙台大空襲で、電車環状線内は全滅しましたが、二高女は無事でした。8月には終戦となり、皆腑抜けの状態でした。戦後学制改革で二高女から二女高に名称が変わり、6年間在籍することとなりました。

 三百余名の同期が多感な青春を過ごした学舎は、何の変哲もない木造の校舎でしたが、木造だからこそ外気とつながり、大空に吸い込まれるような希望を与えてくれたように思います。物の少ない時代にあって、少しの物でも大切に、何でも最大限に利用し工夫することが身についたと思います。

二女高時代
バドミントンクラブ(二列目右)

 創造力を養うには不自由が一番の教材かも知れません。学校で何をどう学んだか思い出せませんが、影響を与えてくださった諸先生の言葉は今も生活の中に生きています。「過去・現在・未来の相互関連性の上に立って考えること」、「いかなるときも人に嫌な感じを与えぬようにふるまうこと」等。

友と一緒に(前列左)
運動会

 高校の思い出として修学旅行があります。行き先は、日光、江の島、鎌倉でした。夜には、仲の良い友達同志で将来のことを話し合ったことを覚えています。そのとき、「私は画家になる。」と宣言した親友は、芸術分野で大活躍され、女流百人展出展をはじめ、女子美で長い間教鞭をとり指導されました。その彼女が2019年10月急逝したときは、驚きと悲しみに打ちひしがれました。亡くなる一週間前、いつもより長電話したのが最期の別れとなるとは、どうしても受け入れ難いことでした。
 お別れのとき、学長が弔辞を述べられた後、続いて私が弔辞を述べさせていただきました。友との別れは本当に辛すぎます。

修学旅行(鎌倉)
修学旅行

 学制改革後の学校でのホームルームの時間、単元学習とグループによる自主学習、科目の自由選択と、その時間によって生徒が教室を移動する等、改革期の混沌とした中にあって教育を模索する活力が溢れていたように思います。

 6年間の長い年月、良き先生と変わらぬ友と豊かな想いで過ごしたことは宝物です。
 現在ほど競争の激しい時代ではなく、物質的には貧しい時代であったのにかかわらず、大らかにそれぞれに個性を伸ばし磨き合った良い時代だったと思います。

2022-11-19掲載

恩師からの餞の寄書き

早川 澄子 ③就職

 1950年4月、高3になったとき、担任の先生から「大学を受験したらどうか」とお声をかけていただきました。人生の岐路において、あの時はずいぶん悩みました。
 当時の日本は、未だ窮乏生活から立ち直れず、経済は少しずつ復興に向かいつつあった時代と思いますが、母一人の収入でこれ以上迷惑はかけられないとの思いが強かったと思います。一年下の妹は保母になりたいとの意向をもっていました。(後に仙台の保母専門学校に進みました。)また、当時は、現在より女性は大学へ進学する人は少なかったように思います。

 1951年3月、私は二女高を卒業しました。就職の道を選んだ私は、すぐ長町にある東北電波監理局へ入局しました。配属は会計課経理係でした。緊張している私を、上司はじめ職場の皆さんが優しく指導してくださったおかげで、少しずつ慣れていったように思います。神経を使ったのは、帳簿の記入と小切手の発行でした。 

就職の頃
会計課の皆さんと(右から2番目)
電波の日(前列左から6番目)

 当時、若かったこともあり、服飾の勉強のため宮城ドレスメーカー女学院の夜間の裁断科から研究科へと進みました。卒業式を間近に控え担任の先生から答辞を述べるようお話があり、困り果てた私は、高校の時の恩師に文面の指導を仰ぎ、式辞用紙に清書してどうにか責任を果たすことができました。卒業式には、私が縫製したスーツを着て臨んだことを覚えています。

 ドレメの卒業後、時間的に余裕ができたので、映画やキャンプそして旅行と職場の友とともに大いに青春を満喫しました。そのときの幾人かの友とは長い間賀状交換を続けてきましたが、ついに一昨年で終わってしまいました。

2022-11-26掲載

ドレメの卒業式

早川 澄子 ④上京

 1956年1月、結婚を機に上京し、東蒲田に四畳半と三畳の二間続きの小さな一戸建てを借り、移り住みました。のんびりと仙台に住んでいた私は、買物かごに財布を入れたまま近くの八百屋で買い物をしていて、財布がなくなっていることに気づいたときには大きなショックを受けました。ここは東京。しっかりしなくてはと反省したことが思い出されます。

 同月、関東電波監理局免許部に転勤になり、零からの出発でした。同年6月に羽田出張所が開設されるまでの短い期間に、同部で広範囲にわたる業務の指導を受けたことは、その後の私にとって大きな影響を及ぼしました。

上京の頃(右側が1番上の義兄、私の後ろ左側が2番目の義兄
関東電監、免許部の皆さんと伊香保へ旅行(2列目左)

 羽田出張所は、羽田郵便局の二階の一室で所長と技官2名、事務の私を入れ、4名でのスタートでした。小さな出張所ながら開設にあたって、所長は、特に盤石な基礎を固めるべくプレッシャーが大きかったと思います。この時の所長が、1974年第五代の電波研究所長に就任されることになるとは思いもよりませんでした。後年、電波研究所で石川晃夫所長に再会したときは、感激ひとしおでした。

 その当時、出張所における業務が円滑に行われるようになるための各人の熱意は、大きかったように思います。鈴木、比護両技官は、連日のように無線局の検査で多忙でした。両技官共、電波研究所からの転勤でした。
 所長が手始めに着手したのが、PR用の小冊子「空の栞」でした。所長の原稿を私がガリ版で印刷したのを覚えています。小さな出張所ながら当時は、官公署連絡協議会等もあり、業務は多岐にわたりました。

羽田出張所時代(右から2番目は石川所長)

 1958年、運よく都の分譲宅地が当たり、国分寺に居を構えることになりました。その少し前、大型台風の襲来で床下浸水の経験をしたことが移転を早めたように思います。1959年我が家の完成後間もなく、荻窪にある電波研究所機器課に転勤になりました。私は、事務部分室管理係に所属し、庶務、会計全般の業務に従事することになりました。
 荻窪の庁舎は、住宅街にある静かな恵まれた環境で、中庭にはテニスコートがあり心が安らぎました。私は、昼休みは義兄から手ほどきを受けたばかりのブリッジに夢中でした。

 国分寺に移り住んで間もなく仙台から母と妹が引っ越してきました。賑やかな楽しい生活になりました。当時の我が家の近くには、畑や田圃があり、春には鶯の声に心を奪われる有様でした。今はすっかり様変わりです。

荻窪分室管理係の皆さんと榛名温泉

 1960年7月長女出産、続いて翌年の1961年12月長男出産で、目の回るような毎日でした。ありがたいことに母が専ら子供たちの養育に専念し、私は母親失格でした。
 母にとって、男の子の可愛がりようは格別でした。生き甲斐だったのかも知れません。1962年、妹が結婚しました。
 私と妹が小学生のとき、祖父母に育てられたことを思わずにはいられませんでした。

2022-12-03掲載

早川 澄子 ⑤型式検定業務等

 1965年(昭和40年)、荻窪にあった機器課が本所に移転になったとき、私は、事務部ではなく、機器課で検定申請業務に携わることになりました。零からの出発です。さあ大変です。型式検定の法的根拠とは何か、から勉強しました。電波法関係条約では、国際電気通信条約や海上人名安全条約等、及び他省庁関係法令では、航空法や船舶安全法等と電波法第37条(無線設備の機器の検定)と関連があること。
 したがって国際電気通信条約等が改正されれば、改正内容によっては型式検定試験にも影響を及ぼすことがあり得るのではないか等と考えながらの学びでした。

 郵政省令で定められた無線機器型式検定規則には、対象とする機器をはじめ合格の条件、検定の手続き等が規定されています。その中で検定の申請に必要な事項として、申請書、取扱説明書、検査成績書、受検機器の外手数料の納付が定められています。そこで事務取扱い上留意すべきことは何かと考えたとき、手数料と受検機器について納得して仕事を進めたい気持ちが強くありました。当時、手数料は収入印紙により納めてもらい、その後消印という手順でしたので、会計検査で説明できるよう、消印の時点は何時が適正か。また、預かった受検機器が、不測の事態により影響を及ぼしたとき国の責任とその対応はといったことを会計課と相談したことを覚えています。今にして思えば、不安だったのかもしれません。

 1978年(昭和53年)年の今野課長時代に、研究所が実施している型式検定の概要説明のため、最初は、四国電波監理局、翌年は信越電波監理局、そして最後は、東北電波監理局へ、当課技官とともに各局の多くの職員の貴重な時間を割かせての説明会を開かせていただきました。型式検定は、無線局の免許等と密接なつながりを持っていることを踏まえ、現場の声を聞かせていただけた良い機会でした。

 急速に増加する無線局に備えて、無線通信における混信や妨害に対処するための努力の必要性が感じられました。当時の検定申請数は、年200を超え、合格率は9割程度でした。

1951年11月小金井幡随院にて妹と一緒

 1987年(昭和62年)9月に、脳梗塞発症により母が亡くなりました。親との別れは堪えました。涙はとめどなく流れる有様に、子供からしっかりしてと励まされたことを覚えています。行年77才でした。丁度その年は、1983年(昭和58年)に佐賀、1985年に岡山、1986年に静岡地方検察庁へ単身赴任していた主人が最高検察庁に戻っていたので、母も安心して旅立つことができたと思っています。

2022-12-10掲載

早川 澄子 ⑥初めての海外旅行

 1977年8月10日から30日までの3週間、初めての海外旅行でアメリカへ旅行しました。その前年から義兄は、在米日本大使館(駐在武官)に勤務していて、義兄がアメリカに居る間に来れたら来るようにとのことだったので、思い切って、義妹と娘と息子を同行しての旅行を決意しました。旅行を決意したのは、同居していた母の言葉でした。「何事においてもチャンスは逃さないこと。それと、高校生の子供たちにとって、未来に向けての糧が得られること。」と話してくれたことで、前へ進めることができました。

 当時は、海外旅行に際しては、本省あて旅行の許可願を申請する必要がありました。職場においては、夏期休暇を利用し、交替で業務に支障を来さないよう執り行ってきましたが、皆に迷惑をかけるのではないかと懸念を抱いていました。そのような折、宮島通信機器部長はじめ、周りのみんなが「何も心配しないで行ってらっしゃい。」とうれしい言葉をいただきました。海外旅行の許可願いが糟谷所長の目にとまり、所長室で旅行の貴重なアドバイスをいただいたことが忘れられません。

 8月10日、いよいよ羽田空港から出国。新しいパスポートを眺めてはワクワク気分でした。10時間余りでサンフランシスコに到着後、まず空港で義兄宅へ電話のとき、たくさんの硬貨が必要だったのに驚かされ、長い旅行の無事が懸念されました。サンフランシスコは、電車と坂の街で、心が和む思いでした。サンフランシスコ在住の親戚につれられてお店で食べたサンドイッチの量の多さには驚きました。フィッシャーマンズワーフの新鮮な魚類を求め、私が料理したのが忘れられません。2泊した後、ニューヨークに着いたものの眠くてホテルで休憩後ニューヨークの五番街等を目を輝かせて散策したのを覚えています。義兄の家に着いてからは、アーリントン墓地、スミソニアン博物館等毎日お出かけでした。FBIを訪れたときは、手荷物検査があり、陳列されている杖が「これが銃です。」と説明されたときは驚きました。街をブラブラ歩いていると、息子が「日本のダットサンだ。」と目を輝かせ、店にはメイドインジャパンの品が多く売られているさまに「日本は小さいけどがんばってるね。」と感慨深そうでした。

 義兄宅での滞在中、生きているロブスターを車で買いに出かけ、義姉が「ゆで時間は大使館のコックさんに教えてもらったのよ。」と上手に料理してくれたことが思い出されます。当時の義兄たちの住居は、地下1回地上2階のパーティー会場も兼ね備えた広さで、そのスケールの広さに驚くばかりでした。義姉は、パーティーが多すぎ、同じ洋服では肩身が狭いし、席中の話題も大変と話してくれたことを覚えています。義姉は3年半前旅立ち、義兄も1年半前義姉の後を追いました。

 ワシントンからシカゴを経由し、アイダホの親戚へ1泊、子供達はキャンピングカーに寝泊まりし、翌日イエローストーン国立公園の間欠泉に酔いしれました。その後ハワイ1泊後帰国することができました。ワイキキの海の色やダイヤモンドヘッドの情景も目に浮かびます。

 楽しい旅行でした。4人とも無事で帰れたことが何よりでした。アメリカの良さと日本の良さを改めて確認できたように思います。

2022-12-17掲載

早川 澄子 ⑦説得の難しさ

 1978年に無線局の急激な増加と電波利用状態の多様化に伴って、無線局の許認可事務の合理化を図るため、無線設備検査検定協会が設立され、研究所で行っていた検定機種の一部について、検定試験業務が開始されました。そのときの「無線設備検査検定業務の効率化」と題する私の投稿が、2001年3月発行の「電波研・通信総研の思い出集」(277頁)に掲載されましたので、抜粋させていただきます。

以下、抜粋
 「研究所が行っていた検定試験を同協会が肩代わりするためには、人的に恵まれることが最大の条件である。その点、卓越した技術力と研究意欲の旺盛な清水富次、谷屋忠一、小林常人各氏でスタートしたことは、繁雑な検定試験を円滑な軌道に乗せることに成功したといえよう。
 ここでは、同協会の業務開始前の状況について触れることにする。

 技術部門については、前述のとおり人選者の並々ならぬ慧眼で事なきを得たが、事務部門においては、女子職員を採用し、順調なスタートをしたいとの協会側の動きがあった。

 そんな折、当時の中村利幸専務理事から、「協会の女子採用候補者に丁寧に説明したが、よい返事がもらえなくて困っている。何とか説得して欲しい。」と懇願された。そこで、本人を説得する破目となったが、本人はかなり深刻な表情であった。そして、おもむろに「中村専務理事は、最初にAMとは…次にFMとは…と細かい話をされたが頭が痛くなってしまいました。私は、協会にはなじめそうにありません。」とこぼした。

 このような状況では説得は難しいと思いながら、少しずつ言い分を聞き、私の経験を話した。私もかつて(昭和40年)突然一般事務から検定業務を担当することになり苦い思い出がある。それは前任者が男性だったせいか検定申請に来られた人の中には、「何だ女性か。」と言わんばかりの態度が見受けられ悲しみとショックが大きかった。そのような態度の人もその後徐々に軟化し低姿勢に変わった。

 本人と雑談を交えながら、誰もが零からの出発であることを話し、できる限りサポートすることを約束した。それが功を奏したのか、その後すっかり協会に溶け込み大活躍された。

2022-12-24掲載

早川 澄子 ⑧庶務課に異動

 私は、その後標準測定部へ移り、同部から総務部庶務課に異動になりました。庶務係に配属されたときは、身のひきしまる思いでした。何しろ研究所全般の行事マネージメントの大役が果たし得るか心細い限りでした。研究所の組織全体が活力に満ちて円滑に業務が遂行できるよう、常に問題意識を持って先例は尊重しながら、そのまま踏襲することなく、意欲を持って日常の業務に励むよう心がけました。

 畚野所長時代、不幸な出来事に遭遇しました。それは、当課職員の武蔵小金井駅近くでの投身事故でした。大きな衝撃を受け係員と一緒に現場を訪れたことを覚えています。葬儀に際しては、所長の弔辞を用意する必要があり、略歴、功績、人格(柄)、ご遺族の心情、別れの言葉が盛り込まれているかを確かめつつ、力強い畚野所長のご指導により無事終えることができました。

2023-01-011991年、畚野所長とは、珊瑚礁の島、南鳥島へ向かうため、入間基地から直行便に搭乗したことを覚えています。所長の南鳥島VLBI基地視察に伴い、三木技官と私も同行いたしました。そのときのスケジュール表を見ながら当時を懐かしく思い出しました。

 同島には、自衛隊や気象庁等の職員が居られ、島に着いた夜は、夜空の下でのバーベキューの歓待に南の島ならではの解放感に浸りました。

 私が、周波数標準部に居たときから、南鳥島VLBI局実験開始に至るまでの並々ならぬ努力は肌で感じておりました。太平洋プレート上の唯一の南鳥島基地は、重要な役割を担っていることに、さらなる成功を願わずにはおられませんでした。

2022-12-31掲載

 

南鳥島旅程

早川 澄子 ⑨秋田電波観測所閉所と大臣視察

 畚野所長時代に秋田電波観測所が閉所されることになりました。閉所に伴い、秋田において閉所式を行うことになり、閉所式開式のための準備をすべて本所から秋田へ連絡し、準備を進めておりました。そのような折、高橋鉄雄氏が心配して、「現地へ行かず大丈夫か。」と温かい声をかけていただきました。

 悔いのない閉所式にしたいとの思いから、当日の会場には、横断幕(長い間ありがとうございました)を掲げ、感謝の意を表しました。閉所式には、畚野所長はじめ多くの関係の方々の臨席のもとに挙行されました。閉所式には糟谷元所長も臨席され、「僕が所長のとき、早川さんには、外国研究者を迎え、講堂で活け花のデモンストレーションをやっていただいたね。」とおっしゃっていただいたときは、忘れずに覚えていてくださったことに感激したことを覚えています。

 心もとない私を、畚野所長は我慢しておられるのではと思いながら、所長のご指導に加え、みんなの協力のおかげで閉所式を無事挙行できたことは、何よりの喜びでした。

 私のリタイアの年の1993年1月、小泉郵政大臣の視察がありました。部長以上は正面玄関でお出迎えし、所長室でごあいさつの後、あらかじめ相蘇さんに硯に墨を擦って準備してもらい、記憶ははっきりしませんが、所長から大臣に色紙の揮毫をお願いしたように思います。

 視察はスケジュール表に従って行われましたが、大臣は、ご自身の興味のある研究には時間におかまいなしのため、それを調整しての視察でした。視察の途中、振興会の喫茶室でティータイムをとっていただき、コーヒーを飲みながら、大臣は私に「研究所の男性はどうですか。」と、おっしゃられたので、即座に「フェミニストです。」と申し上げ、忸怩たる思いにかられたことが思い出されます。「研究所の男性は、女性を大切にしてくれています。」のつもりで申し上げたのですが、わかっていただけたかしらと反省しきりでした。大臣は、終始素敵な笑顔でおられたので、安堵したのを覚えています。

2023-01-07掲載

小泉郵政大臣の視察

早川 澄子 ⑩リタイア後

 1993年3月31日、公務員卒業です。その日は、前日から関西支所へ出張しての帰所でした。ようやく送別会に間にあったことを覚えています。多くの方に助けられ、無事退職の日を迎えることができ感謝です。

 リタイア後は、「ホッとした安心感」と「一寸淋しい」感じを味わいました。今まで近所の方々にお世話になっていたので、自治会の地区長2年間と組長1年を続けて担当させていただきました。

 丁度還暦の年を迎え、二女高の同期会を海外でとの声が高まり香港へ旅行しました。二女高卒業以来40余年振りに会う友もおり、共に学んだ青春時代を懐かしみました。

 退職の翌年の1994年から仙台三越の旅行倶楽部へ入り親友を交えての旅行が始まりました。スペイン、イタリア、スイス、フランス、オランダ、ドイツまでは、主人も同行しました。旅に魅せられた私は、その後ノルウェー、デンマーク、ロシア(サンクトペテルブルク)、バルト三国、トルコ、エジプト、バリ島、韓国と毎年のように旅に酔いしれました。

 団体旅行の他に、1995年娘婿がその前年単身でパキスタンのラホールに駐在していて、娘と孫2人が赴くことに伴い、主人と私も同行しました。パキスタンでは、門番、コック、掃除、洗濯等少なくとも4人、現地の人を雇わねばならないとのことでした。コックが床を汚してもそのままで、掃除担当に任せるようでした。街での一人歩きは危険とのことで、いつもドライバーと一緒でした。3週間の滞在中、ホテルで開催されたパーティーに私たちも出席したことがありました。その豪勢さに貧富の差を感じざるを得ませんでした。

 主人は、娘が結婚したことで愛の喪失感を抱いていましたが、パキスタンでの娘婿の活躍ぶりに、ようやく認めたのか「良い婿だ。安心した。」といってくれたことが思い出されます。それ以後、主人は、娘婿を息子のように思い接してくれました。

 同年、当時米国在住の畚野元所長を頼って杉本裕二、大塚栄治、大里美代子各氏と4人で米国旅行を決行しました。かつて、20年近く前の米国再訪に当時の情景が脳裏に浮かび感慨ひとしおでした。あの時は畚野元所長には大変お世話になりました。ブロードウェイやナイアガラの滝観光は、忘れられない思い出です。

 1996年の暮れから正月にかけて、パキスタン在住の娘夫婦から、バリ島招待がありました。娘婿の父親が同年社長退任後機嫌が悪くて困っているとの母親の懇願に、両家の両親と共にバリ島で過ごそうと思い立ったようです。娘からは「滞在費一切は面倒見るので旅費だけお願いします。」とのこと。娘婿の父親はファーストクラスを希望しているので、それに従わざるを得ませんでした。2人分の航空運賃は62万円でした。忘れられないです。でも8日間滞在のバリ島は、本当に楽しい思い出です。暑い国から帰国して体調を崩したことを覚えています。私にとって、再度のバリ島旅行でしたが、孫達と共にすごしたバリ島の思い出は格別です。

2023-01-15掲載

還暦を迎えて

早川 澄子 ⑪突然の病気

 2000年4月、主人が叙勲の栄に浴し、宮中で天皇陛下(現上皇さま)に拝謁することができました。当日は、私は朝早くから美容院で着付けをしてもらい緊張と疲れで、記念撮影のときは、顔が強張る有様でした。こんなに大変なエネルギーが必要になるとは考えてもいませんでした。

 2009年4月29日朝6時30分、主人が洗面所で脳梗塞で倒れました。私は頭が真っ白になりました。倒れた体に手を差しのべても石のようにびくともしませんでした。左顔面が徐々に歪んでいく様子を唯見ているだけのあの時の情景は、忘れられません。休日だったこともあり、近くに住む息子の助けにより、救急車で多摩医療センターへ緊急入院。その後転院し、8月18日退院することができました。後遺症として左半身の一部麻痺と左半盲の症状が続くことになりました。
 本人もリハビリに努める重要性を感じながら、実際にリハビリの辛さに耐え得ることが容易ではありませんでした。長い長い老々介護が続き、2019年11月3日入浴後一時失神した機会に検査入院いたしました。

 同年11月23日頭部に小さな梗塞が見受けられるとのことでしたが、待ちに待った我が家に帰宅できたときの主人の表情は、Vサインをして、それはそれは満面の笑顔でした。私自身の健康も考慮し、朝昼夕にはヘルパーさんに来宅してもらっていましたが、食事だけは私が面倒をみておりました。毎食の介護食も栄養面を考えながら作り続けました。

 退院から2週間後の12月8日夕食時、主人の様子が急変しました。話すことも声を発することも食べることもできなくなった状態で、多摩医療センターへ緊急入院しました。右前頭葉に梗塞を発症し、なすすべもありませんでした。その後転院を余儀なくされ、約2か月半の酸素吸入と点滴投与でがんばってくれました。毎日面会できたことは何よりでした。しゃべることができなくても心で会話することができたように思います。

 2022年2月24日、主人は子供や孫全員に見送られての旅立ちでした。生きることと死ぬことを目の前で教えてもらったように思います。主人が倒れてから10年10か月の長い介護でした。その後、世の中は、コロナ禍で多くの病院で面会が中止となり、先の見えない状態が続いています。

2023-01-21掲載

早川 澄子 ⑫終わりに (最終回)

 主人が亡くなって、時折り虚脱感にぼんやりしながら、このままではいけないと思いつつ、落ち着かない日々が続きました。そんな折、近くに住む息子家族との会食で少しずつ元気を取り戻していることが感じられ、今でも週2回程度我が家での会食が続いています。孫が帰り際に言う「今日も美味しかったよ。」の一言が、次は何を作ってご馳走しようかとワクワクした気持ちになります。

 我が家の行事として、毎年12月30日は餅つきの日と決めています。子供たちが小さかった頃に、母の提案で始めたのが今に続いています。雨天の日に備えてテントも用意しています。餅つきが始まると、近所の子供や孫の友達が小さな臼の周りで笑顔でうれしそうです。餅つきは、幸せを呼ぶ魔法のような気がします。餅つきの準備は大変ですが、元気で続けられることができるよう自分を励ましています。

餅つきの日に
孫の結婚式で

 長い間楽しんできた趣味もボケ防止のため続けていますが、少しも上達しません。改めて、歩んできた道程を振り返るとき、人的に恵まれて来られた幸せに感謝の念で一杯です。何事にも「どうにかなる。前へ進もう。」とそんな気持ちで歩んできました。

茶の湯1
茶の湯2
油彩
グループ展開催
2022年 美術協会出展作品
グループで植物を活ける
グループ毎の競演
故草月流勅使河原宏家元と共に
草月展出展(友と高島屋で)

 とりとめのない連載になりましたが、このような機会を与えていただきましたことに、心から感謝申し上げます。

 2022年2月ロシアがウクライナへの侵略を始め、いまだ、戦争は長期化の様相を呈しており、一日も早い和平が実現することと併せて、新型コロナウイルスの感染が収束することを心から望んでやみません。今後の皆様のますますのご健康をお祈り申し上げます。

 終わりに、充足感溢れて過ごしたCRLの思い出に、1991年CRLニュースに投稿した随筆を再掲させていただきたく存じます。

CRLニュース 1991年11月第188号より
《随筆》 構内の花に魅せられて
 先日、当所見学のための来訪者とともに道路を隔てた武蔵野の面影の残る雑木林を通りぬけ、宇宙光通信地上センターへと向かった折、皆さん異口同音に「素晴らしい環境ですね。」とおっしゃられた。
 雑木林の辺りは、殊の外都会の喧騒から逃れた静かな自然環境が保たれており、この恵まれた得難い財産は、いつも私たちにほのぼのとした心のやすらぎと豊かさを与えてくれている。

 また、構内には、種々の木々や花々があり、季節の移り変わりとともに、私たちの目を楽しませてくれる。毎年2月から3月にかけて、3号館の南側の紅梅、薄紅梅がほころび、えもいわれぬ美しさとともに、馥郁たる香りが漂ってくる。春の訪れを待ちわびているとき、梅の開花は、それにふさわしいプレゼントといえよう。
 百花繚乱の春には、雪柳、ぼけ、れんぎょう、桜、もくれん、藤、つつじなどが紅、白、黄色とカラフルに咲き競う。続いて、紫陽花、夾竹桃、むくげなどの花が咲き、そして散っていく。

 食堂の近くに見事に咲き誇っていたさざん花が、今は大分散り、辺り一面撒いたように紅の花びらに彩られている。そして、そのさざん花の側に、目にも鮮やかな黄色に染まった銀杏の木が、青空目がけてしゃきっと立ち、地面は黄色のじゅうたんを敷いている。散り果ててなお、紅と黄色の美しさを保ち続けているさまは、けなげさを感じさせる。

 さて、構内の花との出会いについて触れてみたい。
 随分昔のことであるが、秋の文化展開催のとき、生け花の出品を勧められたことがあった。そのときは開催間際のこともあって、早速花材集めに構内を散策した。すすき、われもこう、ほととぎす、水引草、あざみなど野に咲くこれらの花々を生けて感じたことは、なぜ私は今まで野の花に振り向かなかったのだろうという思いであった。それは、大事に育てられた店頭の花にない素朴さと可憐さとそして計り知れない野趣があり、思いがけない発見に心がときめき、それ以来野の花に魅せられている。

 昭和47年、当所で初めて電波研親睦会が開催されたときのことである。上田元所長から寄贈の見事な花瓶の披露を兼ねて花を生けてほしいとの依頼があった。それは、円形の花瓶で鶴が羽ばたいている図柄であった。円は、円満かつ和であり、鶴は、吉兆かつ永遠なる発展を表しているように思えて、それなりの心の準備で花材集めにとりかかった。花材は研究所の息吹きが感じられる構内のものを選び、最終的に決めた主な花材は、松であった。ひばの青さも美しいが、品格において松にはかなわない。自由奔放に育った松の枝で、限りない躍動感と発展を表現したつもりである。また、結実、成就、情熱を願って赤い実もののピラカンサスを加えたことを覚えている。それ以来外での開催を除いて、花材集めなどに協力していただいた多くの方のおかげで、寄贈の花瓶と構内の花材を用いた生け花が、毎回親睦会会場にお目見得している。

 世阿弥の「花伝書」の中で、「時分の花は、誠の花にあらず」というくだりがあるが、この教えのように、生け花は、精進してこそ誠のものとなることを思えば、前途は程遠い。生け花の本質は、その季節にしか得られない花と作者との一度限りの出会いである。花との対話で、「この方が綺麗でしょ。もっと面白くなるから発想の転換をしたら…」とささやきかけてくれる。花をどのように生かせばよいかは、人にも言えそうである。
(総務部 庶務課 庶務係長)

2023-01-28掲載