鹿島宇宙技術センターの歩み(2023年版パンフレットより)
1960年、電波研究所は、鹿島において直径30mのパラボラアンテナの建設に着手し、1964年5月に鹿島支所を開設した。
「日本の衛星通信元年の1年(1963年11月~64年10月)」橋本和彦氏の原稿より抜粋
日本の衛星通信元年は1963年11月のKDD研究所でアメリカからのケネディー暗殺のTVニュースの受信から1964年10月に東京オリンピック映像の郵政省電波研究所からアメリカへの送信が行われたこの1年である、と私は思っている。この両方に偶然にも立ち会った社会人1年生だった私にとって、その後41年間の衛星通信の仕事の始まりともなった。
(1)ケネディ暗殺のTVニュース伝送(1963年11月)
1963年は同じ茨城県の北と南の端で、KDD研と電波研(RRL)が衛星通信の実験施設の完成を競っていた。使う衛星はアメリカとの取り決めで、KDD/AT&T(テルスター衛星)、RRL/NASA(リレー衛星)の組み合わせであった。先にKDD研のアンテナが完成し、追尾と受信が出来るようになった。
しかし、このときのテルスター衛星の楕円軌道の近地点が北半球にあり、カリフォルニアとのMutual Visibilityが取れるパスは当分の間なかった。そこでKDD研は郵政省と交渉し、可能な軌道位置にあったリレー衛星(受信周波数は共に4GHz帯)を使って受信実験を行うことになった。
(2)東京オリンピック映像のアメリカへの伝送(1964年10月)
電波研は64年春になってリレー衛星を使った実験が出来るようになり、米国やシベリア越しにヨーロッパとも伝送実験を行った。私の担当は軌道予報計算による衛星の追尾だったが、軌道要素誤差による予報誤差で衛星が捕まらず、せいぜい20分程度の貴重な実験時間の最初を消費して迷惑をかけたこともあった。
そして、静止通信衛星シンコム3号が太平洋側に東京オリンピックに間に合うように打ち上げられることになり、それに向けた施設の改修、建設が始まった。時間との戦いといくつもの難関があった。
本来は電話中継用の狭い帯域の衛星中継器に映像を通すことと、衛星のEIRPが低いための低いC/N回線への対応である。NHKの考案による方法で白黒画像ではあったがオリンピックが初めて衛星中継された。
鹿島の30mアンテナ(鏡面がメッシュ)ではアップリンク7GHzのゲインが不足で、10mの鏡面がプレートの送信用アンテナが臨時に建設された。
シンコム3号は完全静止ではなかったので、軌道計算、追尾が私の仕事だった。また、学校でデジタル回路をやってきたというだけで、全てのデジタル機器は私の担当になり、いつも時間に追われた故障修理に泣かされた。
橋本和彦、「ある衛星通信技術者の思い出」、Space Japan Review, No. 65, December 2009 / January 2010
CS・BS用主局庁舎にアンテナ設置 1976年7月
CS・BS用主局となる建造中の実験庁舎に、1976年7月23日、直 径13mのアンテナが設置された。CSの準ミリ波用、 BSの14/12GHz用は共に同じ形式の物で、庁舎の左右・ 3階建物の屋上に据付けられた。
据え付け終了したCS用(中央)BS用アンテナ(右)
【資料】電波研究所ニュース、1976.8、No.5
1987.10 18mφバラボラアンテナ、使命を終える
鹿島支所の管制センター構内にそびえていた直径18m のパラボラアンテナは、老朽化のため昭和62年10月27日に解 体、撤去された。このアンテナは周回衛星の追尾が容易 なX‐Yマウント形式(受信周波数VHF帯~S帯、た だしS帯は後で付加)で、昭和46年に建設されて以来電 離層等の観測衛星ISS-b、ISIS、DE-1等の観 測データの受信を行ってきた。また、我が国の実用衛星 や科学衛星の打ち上げ時には、衛星の追跡支援もしばし ば行った。このほか米国の静止衛星ATS-1を利用し ての管制実験では、衛星軌道制御の情報を含むハウスキ ーピングデータの受信を担当した。この実験はわが国初 の静止衛星打上げ以前に行われて成功しており、意義深 い。このようにして運用した衛星数は20個余りに達し た。解体数日前、アンテナの傍には多数の関係者が集 い、今まで活躍したアンテナの労をねぎらうとともに、 最後の別れを惜しんだ。なお、跡地には現在、大型アン テナを建設中である。