追憶の断章ー船川さん

追憶の断章ー船川さん

2020/07/12(08/09改訂) 畚野 信義

私は1961年4月に郵政省に採用された。1ヶ月の本省研修が終り(当時人事院研修はなかった)、1年間の研修という名目で連休明けに同期の技官全員が研究所へ配属された。高田馬場の寮から10時頃に出勤すると配属予定の電離気体研究室では平尾室長以下全員(東大生研派遣の臨時職員を加えて5名)は未だソファーでお茶を飲み、スポーツ新聞を見ながら昨日のプロ野球の話題で盛り上がっていた。当時の官民格差(今は官の方が高いこともあるらしいが当時は官がズッと低かった)は技術系職員の初任給では手取りが民間の半分から1/3くらいであることも珍しくなかったが、研究所の雰囲気はユッタリしていて、ある意味イイ時代だった。翌日から1週間ほどは国分寺の本所の全課・研究室に加えて荻窪の機器課(検定業務)、小金井の標準課(時刻標準業務と二つの研究室、現在は都立小金井高校になっている)の全組織を順番に回った。

船川さんは超高周波研究室というところにおられた。岡村東大教授が室長を兼任しておられて、「翌年にULSI総会が日本であり、会長になる予定なので室長は船川君になる」と紹介された。室員は宇田さん(八木・宇田アンテナの宇田東北大名誉教授の長男)、小口さん(後に落下する雨滴の実際の形状を提案されるなど電波の降雨散乱の世界第一人者になられた紫綬褒章受章者)などそうそうたる研究者がおられた。宇田さんは特に口から生まれたかと思われる饒舌な人で、船川さんはその中で言葉も少なくおとなしい感じの人だった。

しかし、その後所内ですれ違ったときに「君は大阪の出かい」と話しかけて貰った。私の強い大阪弁に気が付かれたらしかった。それからは親しくイロイロ話すようになった。船川さんは天王寺から橿原神宮を経て吉野へ行く関西では数少ない狭軌の線路の近鉄南大阪線の始点の天王寺の次の駅(河堀口、こぼれぐち)近くの出身で実家から離れたくなかったと言っておられた。「東大へ行ってしまったのだから仕方ないでしょう」と言うと「あれは大失敗だったなあ、勤務地は自分で選べると思った」とボヤイテおられた。組織が全国にある郵政省なら大丈夫と思って入られたようだった。そういえば研究所に来られる前は近畿電波監理局にかなり長くおられたらしい。【徳重さんの追悼文「岩岡時代からの船川様の思い出」によると岩岡の電波監視部、後のCRL関西支所(関西先端研究センター)、現在のNICT未来ICT研究所におられたそうである。】

船川さんは穏やかな性格で人と争うということが全くなかった。NASDA発足のドタバタの頃(RRLの定員を23人減らしてNASDAへ移し、電波管制部門と通信衛星部門をRRL(郵政省)が主体の組織にし、それに伴ってRRLの組織を改編した。)ごく短期間私の室長になられた時期があったように記憶しているが広野さんと錦織さんの間か、錦織さんと高比良さんの間か忘れた。室長室は2号館の3階にあり、私は1号館の1階の実験室(スペースチェンバー等大きな真空装置があった)にいて殆ど接触もなく、また私はその頃内之浦に始終行っていて何時もバタバタしていて、その後NASA/GSFCへ行ってしまい、あまり鮮明な記憶がないというかトラブルの記憶はない。言いたいことを言う私は特に部長クラスからは生意気だと嫌われていた(室長とはダイタイいい関係だったが)。NASAへ行く頃には室長は高比良さんだったことは覚えている。

2年余り後に帰国して私は衛星通信(ETS-II,ECS)をやることになった。その後船川さんは鹿島支所長になっておられたが、突然NASDAに行かれることになった。ところが鹿島からだという理由で国分寺本所では船川さんの送別会をやらないと聞いたので、それはおかしいと私が通信衛星部門主催で船川さんの送別会をやることにしたら「僕はモウ電波研へは戻ってこないだろうから」と大変喜んで頂いた。今の交流センター?の場所にあった当時の食堂の前庭(南側)でBQパーティをした。当時私が団委員をしていた所沢のボーイスカウトからイロンナ資材(BBQの炉や何枚もの大型の鉄板等)を持ち込み、出来て間もない3号館寄りに大きなスクリーンを設けて映像を投影したり、小室さんのハワイアンバンドの演奏や花火を上げたりして盛大(派手)にやった。鈴木(良昭)君が入ったばかりで焼けた鉄板で手を火傷したが大丈夫とヤセ我慢をしていたことを思い出す。【この送別会の様子は徳重さんの追悼文にも詳しい。】

その後船川さんはNASDAの理事、副理事長になられた。鹿島支所長から行かれたので理事にはなられると思っていたが副理事長は意外だった。これは矢張り船川さんの人柄と人望によるものと思われる。多分前副理事長の園山さんが強く推されたのであろう。園山さん自身郵政出身でなければ理事長になっておられた器の人であった。元本省(郵政省)の役人で私が一目置く数少ない人物である。船川さんの人柄をキチンと評価されていたのであろう。

船川さんがNASDAを辞められて少し後に高輪の三菱の施設で三浦、古濱君等とお会いしたことがあった。君を一度NASDAに来て貰おうと思っていたがアレヨアレヨという間に取り逃がしたと言っておられた。以来ズッと個人的にお会いする機会がなかった。昨年(2019)の親ぼく会でタマタマ船川さんの名が出たので一度連絡しなければと思っているうちに訃報が届いたのが悔やまれる。

船川さんの写真をいくつか添付する。

インターネットで「船川謙司」と検索するといくつかの論文や同窓会の記事が出てきた。その中に2010年の東大の同窓会の記事と写真(出席者7名)があった。私の見た一番最近の船川さんの写真である。

・同窓会1: 後列左から2人目

・同窓会2: 向こう側右端。

もうひとつ: 旧電友会の資料整理保管を担当している森川君が、昔の身分証用と思われるカナリ若い頃の船川さんの写真を見つけてくれた。

・1989年の第18回電波研親睦会記念写真:船川さんは最前列左から8人目におられる。この最前列には上田(右から8人目)、河野(9人目)元所長も写っている。

インターネットで「船川謙司」と検索するといくつかの論文や同窓会の記事が出てきた。その中に2010年の東大の同窓会の記事と写真(出席者7名)があった。私の見た一番最近の船川さんの写真である。

・同窓会1: 後列左から2人目

同窓会2: 向こう側右端

電友会: もうひとつ 旧電友会の資料整理保管を担当している森川OB/OG幹事が、昔の身分証用と思われるカナリ若い頃の船川さんの写真を見つけてくれた。