あの時あの人 2 センテナリアン(centenarian)

センテナリアン(centenarian) とは100歳以上の人物とある。そのうち、110歳以上の人物は「スーパーセンテナリアン?」 From Wikipedia, A Japanese supercentenarian is someone who has reached the age of 110 or older.

斎藤 成文101歳20日(1919年9月17日 – 2020年10月7日)
ほかに
中曽根康弘 101歳186日 (1918年5月27日― 2019年11月29日)元内閣総理大臣 
野坂参三 101歳229日 (1892年3月30日- 1993年11月14日)日本共産党名誉議長 
がいる。

さて閑話休題
センテナリアンの一人でRRL・CRLに縁のあった斎藤 成文氏の思い出を記したい。

斉藤先生は終戦後、「高周波誘電加熱に関する基礎的研究」をされていた。1957年に東大生産技術研究所において観測ロケット特別事業に参加し、その後カッパロケットからさくら3号bの打ち上げまで、日本のロケット技術、放送衛星開発の第一線で活躍した。1969年、宇宙開発事業団理事、1975年から1977年には、日本ロケット協会の会長、1979年から1980年には、電子通信学会の会長を務めた。

さて小生が先生と出会ったのは道川海岸ロケット実験場で、その後内之浦ロケット実験場においても長い間お世話になった。

SSLG会議 於NASA長官室

そして特に印象に残っているのはワシントンの 米国航空宇宙局(NASA)本部で開かれた日米常設幹部連絡会議に出席した時のことである(昭和61年6月26,27日、註:文末の資料参照)

この時期は宇宙開発の黎明期が過ぎ、日本でも急速な発展期であったと思う。その中でRRL,CRLの活動は目覚ましいものがあり、宇宙開発史上、その寄与は特筆大書に値すると言っても過言ではないと思っている。

その間、斉藤先生はRRL,CRLの活動に注目し理解され、さらに好意的に対応されたことに対して深甚なる敬意を表する次第です。

余談ではあるが1990年1月11日研究所に来られ、施設を見学され昼から夜にかけて懇談したことが記憶に残っている。

宮崎宇宙飛行士

話は変わるが、先に述べたワシントンでの会議の前に日本で初めての宇宙飛行士3人に会ったことや、スミソニアン宇宙航空博物館も忘れ難い思い出である。小生も少し若ければ 宇宙飛行士に応募したかも知れない? 実際、RRLから宇宙飛行士に応募した人が一人いると聞いて驚くやら感心もした!

NICTに幸あれ、祈る更なる今後のご活躍・発展を

参考
・1983.3.、No.84,電波研究所ニュース、「第2回SSLG(宇宙分野における日米常設幹部連絡会)会議に出席して 」若井 登
・1986.9.,No.126 RRLニュース「第4回SSLGに出席して 」宮崎 茂
・第354回研究談話会資料(昭和61年7月24日於鹿島支所)「第4回SSLG(宇宙分野における日米常設幹部連絡会議)出席報告」宮崎 茂