宇宙天気予報(Space Weather Forecast)」始まりの物語

2022年7月
富田二三彦

  1. はじめに

 「宇宙天気予報」という言葉が日本で、世界に先駆けて市民権を得る大きなきっかけは、1987年(昭和62年)の郵政省電波研究所平磯支所太陽電波研究室(当時の組織名称。以下すべて昔の話題においてはその当時の名称を使用します)のひとりの研究官(富田)が平磯や小金井(本所)や霞ヶ関(郵政省)、太陽地球環境情報の関係機関等の多くの皆さまとの協働の中で、翌1988年(昭和63年)度から4か年の(当時としては大型の要求総額5億円、初年度1.4億円)の予算を、郵政省を通じて大蔵省から獲得すべく「新規及び重要施策事項」を提案した時にあります。

 このような新たなプロジェクトは、平磯メンバー(写真1)だけでなく、研究所内はもとより、研究所の外の大変に多くの皆さまのご理解とご尽力なくしては日の目を見ることはありませんでした。そのことをまず表明させていただきます

写真1 1987年(昭和62年)7月31日に平磯在籍の皆様

 当時の科学技術庁研究開発局、宇宙開発委員会長期政策懇談会報告では、21世紀初頭には宇宙工場や日本独自の宇宙ステーションが建設され、人類のための宇宙環境利用が更に進むことが、予想されていました(図1参照)。そのような時代には「宇宙の天気予報」が必要不可欠であるとの認識から始まったプロジェクトです。当初から「まず難しい提案なので、通常の次元で要求してもダメ!」など注文や要求をたくさん浴びせられながらも、まず「宇宙開発計画の見直し」というお墨付きを得ました。また故あって「宇宙環境監視システムの開発」で話を開始しながら、日の目を見そうになったら以降は「宇宙天気予報システムの研究開発」とするカメレオンのような戦術でプロジェクトが開始された経緯を以下に紹介します。

図1 宇宙開発委員会長期政策懇談会報告(科学技術庁研究開発局 1987年(昭和62年)5月)「宇宙開発の新時代を目指して」から主要プロジェクトの開発費を抜粋

2. 電波研究所とその周辺の背景(当時の研究所環境とプロジェクト立上げの仕組み)

 当時の宇宙開発委員会で想定されていた長期展望では、21世紀初頭には、多くの無人/有人のプラットフォームが設置され、宇宙工場まで視野に入っていました。このような時代には当然、宇宙環境をモニターするだけでなく、太陽の高エネルギー粒子線や磁気圏の嵐や電離圏の嵐を予測し警報を発して無人/有人の宇宙活動を守る業務が必要です。業務が2002年頃の太陽活動極大期に開始されているためには、その前の極大期1991年頃には研究と開発が相当のレベルで達成されていなければならないので、1988年(昭和63年)には急いで施設整備を開始する必要があります(これが大蔵省要求のしょっぱなに必須の「緊急性の説明」になります)。

 1987(昭和62)年当時は、郵政省の中の電波研究所です。いわゆる国立研究所で、例えば当時の主任研究官の任命権者は中山正暉郵政大臣でした。名称は1988年4月から通信総合研究所に名称変更されました。ちなみに日本電信電話公社の民営化が1985年に行われています。研究所全体の年間予算総額が約40億円、内人件費が22億円(総予算の50%超)、経常事務費9億円、試験研究費が9億円という、研究所の財政としては正真正銘のドン底の状況でした(そんな状況でも10名程度の新人を毎年採用し、当時では珍しく中途採用・ポスドクを2名も(富田ともう一人です)選考採用したのはサスガの長期的視野というか、個人的には感謝しかありません。

 同じく1987年(昭和62年)には研究所の年間予算のナント1.5倍超の63.3億円の補正予算が勃発しました。(米国との外交交渉の影響で)輸入枠重視(または条件)で宇宙光通信センター1.5m衛星光通信用望遠鏡、VLBI用鹿島34mアンテナなど米国製施設整備をなんと全工程を8か月間!で完成しなければならなかった、担当者にとっては魔の’62補正です。なお、その後他の年度(例えば2012年(平成24年))にも大型補正予算があり、一年ぽっきりの「施設整備」という難物なのは同じですが、期間的にはもう少し人間的でした。

 大型補正に加えて、翌1988年開始の衛星間通信技術の研究開発、宇宙天気予報システムの研究開発、宇宙からの降雨観測のための二周波ドップラレーダの研究、放送及び通信の複合型衛星のための研究、そして電気通信フロンティア技術の研究開発が、いわば瀕死の研究所財政へのカンフル剤として、浅い角度ながらも研究所予算のV字回復の改善玉となった時代です。

 次年度の新規及び重要施策事項としての予算要求(いわゆる玉出しと玉磨き)はその前の年度の早春に始まります。研究所内及び郵政省の担当課等で揉みくちゃになった後に生き残った課題を、熱い夏の最中に研究所の企画調査部企画課の担当主任研が、冷や汗を含めて多量の汗をかきつつ大蔵省の担当官に対して直接説明するシステムでした。説明時とその後の宿題対応時の大蔵省の反応具合が、郵政省の会計課を通じて課題担当課及び技術開発企画課に持ち帰られて、本省と研究所間で再度揉みくちゃになって初冬に生き残りが決定するという仕組みです。

 更に、宇宙に関する案件には事前に別次元のハードルがあり、宇宙開発計画の「見直し要望」に(研究所からでなく)郵政省から提案されて、毎年改訂される「宇宙開発政策大綱」にそのプロジェクトの開始が認められていることが、大蔵要求に進むための前提条件となります。複数回開催される見直し要望のヒヤリングには研究所の企画課と郵政省の宇宙通信開発課が対応し、その場でのやり取りなどを通じて宇宙通信開発課及び郵政省の理解を得ることが研究所の外での第一関門となります。

3. 平磯支所の背景

 ここで1987年頃までの平磯支所の背景を紹介します。
 1950年頃には短波による無線通信は、国際通信・放送、船舶や航空機との通信など全盛期を迎えます。一方、その伝搬は電波を反射する電離層の状態により大きく変動するため、電波の伝わり方の現況と予報の情報を国民に周知することが国立研究所として重要な任務になりました。この電波警報業務とそのために必要な電波伝搬に関する研究、更にその基盤となる太陽地球間の宇宙環境じょう乱に関する観測と研究開発がこの時期から急速に進展し、地震や海洋や気象が専門の地球物理学に新たな学問分野「太陽地球間物理学」が誕生します。

 平磯では1930年頃から世界主要局の短波帯の受信強度の測定を行い電波伝搬の研究を行っていましたが、1969年には短波帯対数周期アンテナ4面が整備され、必要に応じて短波伝搬状況をモニターする回線が選べる態勢ができました。

 電離層の定常観測も日本で初めて平磯において1934年に始まり、太陽黒点の観測だけでなく、太陽活動を定常的に観測するための電波望遠鏡が国立天文台との協力によって開発・製作されて、200MHzによる観測が開始されたのが1952年です。1953年には地磁気観測も平磯で開始されています。

 国内では、1946年から日本学術委員会の下に設置された電離層特別委員会が定期的に開催され、太陽、宇宙線、地磁気、電離層、電波伝搬などの、関係する組織に所属する研究者が観測と研究の成果を持ち寄って、太陽地球間環境で生起するさまざまな自然現象を比較検討しました。

 電波警報については当初の一時期を除き、平磯で決定・発令されました(1950年〜)。発令の結果は、短波標準電波(JJY)に12時間後までの電波じょう乱を予報する符号(W:激しい嵐、U:不安定状態、N:平穏)をモールスコードで載せてリアルタイム(随時)に放送されます。その後1951年には週間電波じょう乱予報のはがきが追加され、1986年にはテレホンサービスに移行しています。

 電波警報のための国内の諸機関との情報交換だけでなく、世界中の観測研究機関との連携も短波(JJD)によるウルシグラム(URSI: Union Radio Scientifique Internatianale + teleGRAM)放送やテレックスなどの通信網を通じて国際ウルシグラム世界日警報業務機関(IUWDS: International Ursigram and World Days Service)の間で行われました。IUWDSの本部は米国(コロラド州ボルダー)ですが、豪、日、露、仏、米に置かれた地域警報本部の西太平洋地域警報センタが電波研究所で、平磯は世界日警報(GEOALERT)の担当でした。相互の情報交換にはコード化された短波のモールス信号が長年使用され、その後近年になってテレックスが使用されていました。なお、宇宙天気予報発足後の1992年にはインターネットへ移行して、IUWDSも1996年にはISES(International Space Environment Service)に拡大・衣替えしています。

 このような国際連携の大きなきっかけが国際地球観測年(IGY: International Geophysical Year, 1957-1958)です。日本の南極観測拠点「昭和基地」が開設され、世界初の人工衛星スプートニク1号が誕生して、米国のエクスプローラ1号はバンアレン帯を発見しています。

 図2に宇宙天気予報前の1985年頃の電波警報業務の情報の流れ、その中のIUWDSネットワークを図3に示します。電波警報は中断や空白が許されない「業務」として一年365日24時間体制で行われていました。特に世界各国との間の情報交換のIUWDSネットワークによるウルシグラム放送は電波研究所の小金井本所の通信係の担当です。図3の線上にUTで示されている定時放送だけでなく臨時の国際的な情報交換にも対応するため、長い間24時間4交代の勤務が行われていました。もちろん平磯の「当番」も365日24時間の対応ですが、特に大きなじょう乱が予想される場合を除いて、日中の勤務体制の中で業務が行われました。

 IUWDSネットワークにより入手して記録される、国内・国外の各種観測データは太陽から地球超高層大気までの最新の太陽地球間環境情報を網羅しており、質・量ともにその後のデータサイエンスの先駆けとも言える充実した内容でした  

図2 1985年頃の電波警報の情報の流れ

図3 1985年頃のIUWDSネットワーク、線上の数値はおおよその通報時刻(UT)

表1  1985年頃の電波警報の内容及び伝達

 このような平磯の長い歴史と多くの実績を踏まえて、1987年当時には相当なレベルに成熟した「電波警報業務あるいは電波じょう乱予報、あるいは宇宙環境じょう乱予報とも言える内容の業務」が行われています(表1参照)。その見地からは「宇宙天気予報」は「電波警報業務」からの転換という見方ができます。しかしながら、「宇宙天気予報」発足の意図はあくまでも未来志向で、将来の宇宙利用やさまざまな社会生活への宇宙環境じょう乱の影響を最小限にして、国民の安全と安心を確保することが目的であることもまた重要な側面なのです。

 

4. 宇宙環境監視システムの開発から宇宙天気予報システムの研究開発へ

 1987年早春、最初の版「太陽面擾乱予知のための太陽総合観測」(4年間の要求総額が1億円)が平磯支所太陽電波研究室から提案され、ついで「宇宙環境総合監視システムの研究開発」が電波部電磁圏伝搬研究室、電波媒質研究室、電波応用部電磁波利用研究室、平磯支所通信障害予報研究室、太陽電波研究室で作成されました。所内で揉まれに揉まれて、4月28日には結局平磯支所の2研究室から「宇宙環境監視システムの開発」が4年間の要求総額5億円で提出されています。

 5月中旬には局研連(通信政策局・電波研究所連絡会)で新規案件として紹介されるのと並行して宇宙開発見直し要望のヒヤリングの俎上にも上っています。

 当時、富田は丸橋支所長との雑談で「米国の海洋大気庁NOAA(ボルダ―)はずーっとSpace Environment(宇宙環境)と言っているけれど、Naval Research Laboratory(米国海軍研究所)なんかの論文ではSpace Weatherを使うこともあるんだよね~」という会話をしたのが日本語の「宇宙天気予報」英語のSpace Weather Forecastが閃いた起源と記憶していますが、その時期の記憶が曖昧です。

 一方、丸橋支所長は当時の自身の回顧録で『その用語は、Tさんとわたし(以下M)の会話から生まれました。わたしたちは 国際シンポジウム(MAP)出席のため、京都の安宿に同宿していました。TもMも近いうちに平磯支所に異動すると思われる頃で、こんな話をしました。T::平磯に行ったら何をしたらいいんでしょうね。M:われわれの分野では、電波伝搬の予報から宇宙環境そのものの予報をめざそうと動いているのだけれど、宇宙環境予報という言い方ではね。どうも「環境」という言葉にネガティブな印象を感じるひとが少なくないそうです。平磯町が発行した町の歴史には平磯支所の仕事が紹介してあって、電波警報を「電波の天気予報」と説明しているよ。T:それはいい。じゃあ「宇宙天気予報」で行きましょうよ。わたしも賛同し、用語としての「宇宙天気予報」が誕生しました。』と書かれているので、そうであったかもしれません。であれば、1984年冬には「宇宙天気予報」という言葉が丸橋・富田間で生まれ、1985年から1987年頃に表に出ていったことになります。

 いずれにせよ宇宙空間の利用が一般的になれば、よりユーザーのイメージしやすい「宇宙天気予報」を使う方が優れていると即座に思い込んだ富田は、丸橋支所長の忠告「科学的には、宇宙天気の予報というよりは宇宙環境じょう乱の予測の方が研究者にはスムーズに理解されやすいよね」という忠告をちゃんと聞かずに、「宇宙環境予報(いわば宇宙天気予報)」や、もろに「宇宙天気予報」をそこかしこに使うようになりました。実際、4月28日提出の予算要求書には「宇宙環境監視」ですが、5月15日作成の局研連資料には「宇宙環境監視(宇宙の天気予報)」と記述されています。

 当然、新語の「宇宙天気予報」には賛否両論ありました。例えば宇宙開発見直し要望に対する郵政省のコメントにもそのあたりの塩梅(反応の揺れ具合)が以下のように記述されています。つまり、長年「天気予報」を所掌とする運輸省気象庁への配慮です。『「宇宙天気予報」という用語は、「いわば宇宙天気予報として」だけの部分にとどめる方がよい。が(予算要求との関連(つまり大蔵省の受け)ではこのままがよいかも知れない-要検討)』

 各方面への説明には、当時の研究所の畚野企画部長からの電話コメントに従いました。「この企画は通常の次元(例えば通信に役立つ、通信衛星の障害等)だけで攻めても通らないので、(SFでもよいので)10~20年先を見越した「スジの通った未来志向のStoryを考え、信念を持って主張すれば、通るカモしれない。」

 そのような作業の結果、宇開課の課長補佐が宇宙開発計画見直し要望二次ヒヤリングの議事メモに「RRL(電波研)の目玉にすること」というコメントを伏して研究所企画課の主任研宛てFAX送信(5月26日付け)したのが、いわば「宇宙天気予報」プロジェクトが日の目を見るきっかけのひとつと思われます。

 今でこそ「宇宙天気予報」という日本語(Space Weather Forecastという英語)には市民権があり、おおよそ高度60km以下の気象現象や地上の天気予報の主体は気象庁、60km以上の宇宙の環境監視や宇宙天気予報は国立研究開発法人 情報通信研究機構及び主要な大学や他の国の機関との連携という認識があります。また最近はニュースなどにも時々取り上げられるようになっています。宇宙の利用だけでなく社会生活の高度化に伴って、宇宙天気の影響の範囲が拡大していくので、国民の皆さんに宇宙天気予報のことをより知っていただくこと、それを正しく利用していただくことは大切なことです。

 しかしながら、出始めの頃は文字通りの新しい造語「宇宙の天気を予報する」なので、霞ヶ関周辺では運輸省気象庁方面からのネガティブな反応に気遣うと伴に、地球電磁気・超高層大気の地球物理学界や天文学界などにも理解を得ていく作業と努力が必要でした。特に宇宙開発見直し要望には、宇宙利用機関の大手で気象衛星を継続的に打ち上げて運用する気象庁が絡むため、宇宙の天気に関する所掌などの論争が勃発して計画に遅れが生じたりするのを避けるため、春~夏には「宇宙環境監視システムの開発」で話を進め、「宇宙天気予報システムの研究開発」を使用するのは、秋~冬の予算内示に目途が付いて以降(議論がもし起こるならその後)にしましょうという状況で、それが結果的に成功して宇宙天気予報プロジェクトが世の中に出ていきました。

 もちろん、上記のような作業や努力と、さまざまな場所でのネゴシエーションの大部分は、冒頭に挙げさせていただいた皆様ほかに依るところがまことに大きかったと、今更ながらではありますが頭が下がります。

図4 1988年頃の平磯支所における電波じょう乱予報発令の作業過程

図6 1988年の最初の宇宙天気予報パンフレット(郵政省通信総合研究所)

5. おわりに

 図6は、1988年に作成された最初の宇宙天気予報パンフレットです。この中に描かれている日本独自の有人プラットフォームも宇宙工場も、21世紀初頭になっても、影も形もありません。しかしながら、国際的な連携によって運用されている宇宙天気予報の研究開発とサービスが各国の国のレベルで認識され、例えば米国では、米国国家情報会議(National Intelligence Council)のGlobal Trends 2030においても、大規模な磁気嵐が飢饉、津波、土壌劣化と並び、国家を滅ぼす威力のある4大自然災害に想定されています。

 また国際連合 経済社会理事会の専門機関のひとつで、国際民間航空の安全性、保安、効率、定期運航や航空環境保全に必要な国際基準や規則を定める、国際民間航空機関(International Civil Aviation Organization、ICAO)は、大洋上での通信や、極域航路での通信及び宇宙放射線による被ばく、更にはGPS等の衛星を利用した測位精度、のそれぞれの項目に関する現況及び予報のため、気象や火山噴火等の情報と同様に宇宙天気予報を日常の業務に導入しています。

 今後も人類が直接宇宙空間へ進出していく速度は早くないかもしれませんが、無人システムによる宇宙の利用は質・量ともに急速に進展していくことが予想されています。また百年〜千年の時間スケールで見れば、特に大きな規模の太陽フレア(スーパーフレア)やそれに伴うCME(Coronal Mass Ejection)が発生する可能性のあることがこれまでの天体観測で明らかになっており、その影響がたまたま地球方向に向かって大きな嵐を引き起こすようなことがあると、高度に発達した文明社会に対しては、米国の指摘のように世界中の国の経済や社会が壊滅的なダメージを受けかねません。

 かつて電波警報業務は当時の太陽地球間物理学と情報通信技術(ICT)を牽引していました。このように人に役立つ研究開発では基礎から応用へ(上流から下流へ)だけではなく、人々へのサービス向上の取り組みが基礎的な研究や技術開発をさらに進化させる、新たなScience and Technologyの好循環の世界が広がっています。

 今後も引き続き、宇宙天気予報のための研究と開発とそれらの成果を基にしたサービスと技術開発、更にそれらの相互作用による新たな取り組みが進み、太陽及び太陽地球環境物理学と宇宙天気予報と情報通信技術が伴に進化していくことに期待して、始まりの物語「宇宙天気予報は日本の平磯で始まりました」といたします。

  最後に注釈です。上記の経緯では、当時の資料(切り貼りによる資料作成やFAXによる情報交換が主流だったため、原本やFAXが紙資料としてしか残っていません)を基にした部分も多数ありますが、一部は口頭や電話など記録なしに記憶に頼っている部分も含まれます。よって、記憶間違いの部分も含まれているとは思いますが、あくまでも「個人の平磯における記憶」ということで、ご容赦頂きますようお願いいたします。また修正すべき事項などいつでもコメントをお受けいたします。

参考文献など

 宇宙天気予報プロジェクトが開始される1988年以前の電波警報に関しては、1986年3月発行の電波研究所季報に木所常一さんと森 弘隆さんが詳細な解説論文を発表し、当時の電波警報業務を紹介しています。
「電波警報業務の概要」、電波研究所季報

 ウルシグラム放送に関しては、潰田一輝さんの電波研究所ニュース(1981年9月)の記事をご参照ください。
https://www.nict.go.jp/publication/CRL_News/back_number/066/066.htm

「宇宙天気予報」は1988年6月以降、国立研究開発法人 情報通信研究機構に商標登録されており、それは現在も継続しています。

 現在の宇宙天気予報についてはhttps://swc.nict.go.jp/ をご参照ください。フレアやオーロラの発生予測などを含め、宇宙天気予報そのものだけでなくサービスの内容や仕組み、国内および国際的な連携などについて、わかりやすく解説されています。