「宇宙天気予報」始まりの物語
- はじめに
最近、テレビや新聞等で「宇宙天気予報」という言葉をよく見聞きします。主に太陽の活動により地球を含む宇宙の環境が変化し、宇宙機器だけでなく時には通信障害など地球上の私たちの社会生活にも深刻な影響を与えることがあるため、宇宙(太陽地球間)環境の予報を行う必要性と重要性が広く知られるようになってきました。なお、「宇宙天気予報」は、1988年6月にNICTにより商標登録されています。
現在の宇宙天気予報についてはhttps://swc.nict.go.jp/ をご参照ください。フレアやオーロラの発生予測などを含め、宇宙天気予報そのものだけでなくサービスの内容や仕組み、国内および国際的な連携などについて、わかりやすく解説されています。
この「宇宙天気予報」が日本で、世界に先駆けて市民権を得る大きなきっかけは、1987年(昭和62年)の郵政省電波研究所平磯支所太陽電波研究室(以下当時の組織名称です)のひとりの研究官(富田)が平磯、小金井(研究所の本所)、霞ヶ関(郵政省)および関係機関の多くの方々との協働の中で、翌1988年度から当時としては大型の4か年総額5億円の予算を郵政省を通じて大蔵省に予算要求した時にあります。
このような新しいプロジェクトは、平磯支所のメンバーだけでなく、研究所内はもとより、所外の多くの皆さまのご理解とご尽力なくしては日の目を見ることはありませんでした。「宇宙環境監視システムの開発」で話を始め、日の目を見そうになったら以降は「宇宙天気予報システムの研究開発」とするカメレオンのような戦術でプロジェクトが開始された経緯をご紹介します。
- 「宇宙天気予報」は電離層の研究から生まれました
1900年代中頃までは、短波が世界で通信の主役でした。平磯では1930年頃から世界主要局の短波帯の受信強度の測定を行い電波伝搬の研究を行っていました。電離層の定常観測も日本で初めて平磯において1934年に始まり、太陽黒点の観測だけでなく太陽活動を定常的に観測するための電波望遠鏡が国立天文台との協力によって開発・製作されて(1952年)、1953年には地磁気観測も平磯で開始されています。
1950年頃には短波による無線通信は、国際通信・放送、船舶や航空機との通信など全盛期を迎えます。一方、その伝搬は電波を反射する電離層の状態により大きく変動するため、電波の伝わり方の現況と予報の情報を国民に周知することが国立研究所として重要な任務になりました。この電波警報業務とそのために必要な電波伝搬に関する研究、更にその基盤となる太陽地球間の宇宙環境じょう乱に関する観測と研究開発がこの時期から急速に進展し、地震や海洋や気象が専門の地球物理学に新たな学問分野「太陽地球間物理学」が誕生しました。
電波警報については当初の一時期を除き、平磯で決定・発令されました(1950年〜)。発令の結果は、短波標準電波(JJY)でリアルタイムに放送され、1986年にはテレホンサービスに移行しています。
- 国際協力
電波警報のための国内の観測研究機関との情報交換だけでなく、世界中の観測研究機関との連携も短波によるウルシグラム放送やテレックスなどの通信網を通じて国際ウルシグラム世界日警報業務機関(IUWDS)の間で行われました。IUWDSの本部は米国(コロラド州ボルダー)ですが、豪、日、露、仏、米に置かれた地域警報本部の西太平洋地域警報センタが電波研究所で、平磯は世界日警報(GEOALERT)の担当でした。このような国際連携の大きなきっかけが国際地球観測年(IGY: International Geophysical Year, 1957-1958)です。この時に、日本の南極観測拠点「昭和基地」が開設され、世界初の人工衛星スプートニク1号が誕生して、米国のエクスプローラ1号はバンアレン帯を発見しています。
1991年頃の国際的なデータ交換網と平磯支所での毎日の予報会議の様子
- 宇宙天気予報の研究開発の予算獲得秘話
1987年早春、平磯支所の2研究室から「宇宙環境監視システムの開発」が4年間の要求総額5億円で提出されました。当時、富田は丸橋平磯支所長との雑談で「米国の海洋大気庁(NOAA)はずーっと宇宙環境(Space Environment)と言っているけれど、米国海軍研究所(Naval Research Laboratory)なんかの論文ではSpace Weatherを使うこともあるんだよね~。」という会話をしたのが日本語の「宇宙天気予報」、英語のSpace Weather Forecastが閃いた起源と記憶していますが、その時期の記憶が曖昧です。
一方、丸橋支所長は当時の自身の回顧録で『その用語は、Tさんとわたし(以下M)の会話から生まれました。私たちは 国際シンポジウム(MAP)出席のため、京都の安宿に同宿していました。TもMも近いうちに平磯支所に異動すると思われる頃で、こんな話をしました。T::平磯に行ったら何をしたらいいのでしょうね。M:我々の分野では、電波伝搬の予報から宇宙環境そのものの予報をめざそうと動いているのだけれど、宇宙環境予報という言い方ではね。どうも「環境」という言葉にネガティブな印象を感じるひとが少なくないそうですよ。平磯町が発行した町の歴史には平磯支所の仕事が紹介してあって、電波警報を「電波の天気予報」と説明しているよ。T:『それはいい。じゃあ「宇宙天気予報」で行きましょうよ。私も賛同し、用語としての「宇宙天気予報」が誕生しました。』と書かれているので、そうであったかもしれません。であれば、1984年冬には「宇宙天気予報」という言葉が丸橋・富田間で生まれ、1985年から1987年頃に表に出ていったことになります。実際、1987年4月28日提出の予算要求書には「宇宙環境監視」ですが、5月15日作成の資料には「宇宙環境監視(宇宙の天気予報)」と記述されています。
当然、新語の「宇宙天気予報」には賛否両論ありました。例えば宇宙開発見直し要望に対する郵政省のコメントにも以下のように記述されています。長年「天気予報」を所掌とする運輸省気象庁への配慮です。『「宇宙天気予報」という用語は、「いわば宇宙天気予報として」だけの部分にとどめる方がよい。しかし、予算要求との関連ではこのままがよいかも知れない-要検討)』。
各方面への説明には、当時の研究所の畚野企画部長からの電話コメントに従いました。「この企画は通常の次元(例えば通信に役立つ、通信衛星の障害等)だけで攻めても通らないので、10~20年先を見越した「スジの通った未来志向のストーリを考え、信念を持って主張すれば、通るかもしれない。」
このような助言による作業の結果、郵政省宇宙通信開課長補佐が宇宙開発計画見直し要望二次ヒヤリングの議事メモに「電波研(RRL)の目玉にすること」というコメントを付して研究所企画課の主任研宛てファックス送信(5月26日付け)したのが、いわば「宇宙天気予報」プロジェクトが日の目を見るきっかけのひとつと思われます。
「宇宙天気予報」誕生当時の平磯支所在籍のメンバー。前列向かって左から3人目が丸橋支所長、その後ろが富田(1987年7月31日撮影)
- 重要性が国際的に認知された「宇宙天気予報」
下の図は、1988年に郵政省通信総合研究所平磯支所で作成された最初の宇宙天気予報パンフレットです。この中に描かれている日本独自の有人プラットフォームや宇宙工場は当時の宇宙開発委員会の報告書には描かれていましたが、21世紀初頭の現代では、影も形もなく実現されていません。
1988年の最初の宇宙天気予報パンフレット(郵政省通信総合研究所)
しかしながら、国際的な連携によって運用されている宇宙天気予報の研究開発とサービスが各国の国のレベルで認識され、例えば米国では、米国国家情報会議のGlobal Trends 2030においても、大規模な磁気嵐が飢饉、津波、土壌劣化と並び、国家を滅ぼす威力のある4大自然災害に想定されています。
また、国際民間航空の安全性、保安、効率、定期運航や航空環境保全に必要な国際基準や規則を定める、国際民間航空機関(ICAO)は、大洋上での通信や、極域航路での通信及び宇宙放射線による被ばく、更にはGPS等の衛星を利用した測位精度、のそれぞれの項目に関する現況及び予報のため、気象や火山噴火等の情報と同様に宇宙天気予報を日常の業務に導入しています。
今後も人類が直接宇宙空間へ進出していく速度は早くないかもしれませんが、無人システムによる宇宙の利用は質・量ともに急速に進展していくことが予想されています。また、特に大きな規模の太陽フレア(太陽における爆発現象)が発生し、その影響がたまたま地球方向に向かって大きな磁気嵐を引き起こすようなことがあると、高度に発達した文明社会に対しては、米国の指摘のように世界中の国の経済や社会が壊滅的なダメージを受けかねないのです。
- おわりに
かつて「電波警報業務」は、当時の太陽地球間物理学(科学)と情報通信技術(ICT)を牽引していました。このように人に役立つ研究開発では基礎から応用へだけではなく、人々へのサービス向上の取り組みが基礎的な研究や技術開発をさらに進化させる、新たな「科学」と「技術」の好循環の世界が広がっています。
今後も引き続き、宇宙天気予報のための研究と開発とそれらの成果を基にしたサービスと技術開発、更にそれらの相互作用による新たな取り組みが進み、太陽・地球環境物理学と宇宙天気予報と情報通信技術が伴に進化していくことに期待しています。
最後に、本稿は当時の現存する資料を基にして記述しましたが、一部は口頭や電話など記憶に頼っている部分も含まれます。記憶間違いの部分も含まれているとは思いますが、あくまでも「個人の平磯における記憶」ということで、ご容赦頂きますようお願いいたします。また修正すべき事項などいつでもコメントをお受けいたします。
(2022年7月 情報通信研究機構OB 富田二三彦)