三浦秀一さんの想い出

三浦秀一さんの想い出

2020年8月15日

大森慎吾

私が電波研究所へ採用されたのは、昭和53年4月でした。人事院研修と電波研究所の研修が2か月あり、実際に研究室に配属されたのは6月1日です。電波研の研修で鹿島へ行った際、一人一人TV会議室に呼ばれて田尾企画部長から「海洋通信研究室勤務」の内命を受けたのを覚えています。電波研所長は、粕谷績さんでした。

当時は、通信衛星(CS)と放送衛星(BS)の打上げと実験のため、採用者の多くが鹿島へ配属になると言われており、TV会議室から出てくる様子で小金井か鹿島かわかりました。同期は、吉門、熊谷、島田、峯野、大橋、水野の各君でしたが、島田君、峯野君、大橋君が鹿島、熊谷君が平磯、吉門君、水野君、私が小金井勤務でした。

配属となった海洋研は、通信機器部(部長は宮島貞光さん)に所属していて、2号館1階の東端にありました。隣の業務係には、元田係長と宮崎玉恵さん、伊藤真理子さんがいました。

海洋通信研究室は、室長が三浦秀一さんで、入間田惇さん、森河悠さん、近藤喜美夫さん、松井敏明さんの5名、私が入って6名になりましたが、翌年に長谷良裕君が入ってきて7名になりました。海洋研の名称からわかるように、当時は海洋開発ブームで、昭和50年には沖縄国際海洋博覧会が開催され、海洋開発が世の中の趨勢だったことがわかります。研究室の隣の実験室には、海洋レーザや水槽がありましたし、敷地北端の一角には、プールのような大きくて深い実験用水槽があり、夏には清掃を兼ねて泳いでいました。

しかし、私が海洋研に入ったときは、すでに海洋通信プロジェクトは終了し、航空機や小型船舶を対象とした衛星通信システム(航空・海上技術衛星(AMES:Aeronautical Maritime Engineering Satellite;AMES) 計画が進行していました。(電波研ニュース、1979.11 No.44)http://www.nict.go.jp/publication/CRL_News/back_number/044/044.htm

三浦室長は、昭和53年9月から、フランス留学で不在となり、森河さんが実質的な室長としてAMES計画の推進に尽力されていました。三浦室長とは、フランス出発までの3か月ほどしか一緒ではありませんでしたが、海事衛星「MARECS」の論文などを渡され、勉強するよう言われました。森河さんや入間田さんらが「ペイロード」とか「ブレッドモードモデル」とか、新入生には、何を言っているのか不明な言葉で議論していたのを覚えています。3か月の間でしたが、ランニング、手ぬぐいハチマキ姿(トレードマークだったようです)で軟式テニスをしていた姿をよく覚えています。非常にエネルギッシュで、早口で頭の回転の速い人だとの印象でした。

1年後の昭和54年の8月には帰国され、AMES計画の陣頭指揮を執っていました。一番の思い出は、昭和55年(1980年)の秋から始まった、美浜(福井県)での海面反射実験です。小型船舶搭載用の衛星通信用のアンテナは低仰角で海面反射の影響が大きいため、そのデータをとり、フェージング軽減アンテナの効果を実証するためでした。海岸に船舶搭載アンテナを設置、仰角5度程度となる山側に衛星を模擬する送信機を設置しての実験です。海洋研総出で1か月ほど民宿に長期滞在してコンテナハウス(建築現場で使うコンテナ状のハウス、トラックで搬送)、アンテナ設置、実験装置の設置など、三浦室長がヘルメット姿で率先して作業していました。

美浜での実験準備(左から、長谷、内田、大森、三浦、入間田、森河)

実験は、2,3度行ったと思いますが、三浦室長はじめ、海洋研メンバーは、騒音も図体も大きな「電源車」に乗って電波研から美浜まで長時間ドライブしました。朝早く、電波研を出発しましたので、前日に東村山の三浦さんのお宅へ車で行き、一泊して翌朝三浦さんを乗せて電波研へ行き、電源車に乗り換えて美浜へ出発しました。三浦さんのお宅では、奥さまに大変おせわになりましたし、3,4歳の息子さんがいて、大変嬉しそうに話していたことを覚えています。
(文頭の電源車を背景にした写真、左から、内田、三井浦、森河、近藤、大森、車の中に長谷)

その後、昭和60年4月には、海洋研は新設の移動体衛星通信研究室(小坂克彦室長)へ衣替えとなり4号館へ移りました。同時に三浦さんは、宇宙開発事業団(NASDA)へ転出され、理事となりました。

1985/3/29 海洋研解散式@電波研  三浦室長が自ら黒板に書いた、海洋研宇宙発進式(解散式)式次第

1985/3/29 三浦室長送別会@海洋研@吉祥寺パリジェンヌ (左から大森、坂斎、久保田、三浦、石澤、長谷)

その後、AMES計画は、技術試験衛星5型(ETS-V)計画として具体化され、昭和62年(1987年)8月27日にETS-Vが打ち上げられ、北海道大学の練習船「おしょろ丸」やJAL航空機による移動体衛星通信実験が始まりました。

私にとって、三浦室長は、社会人となって初めての上司でした。決して威張ったり、偉ぶったりしたりすることのない部下思いの人で、自由で闊達な電波研の印象を強く与えてくれた社会人としての指導者でもありました。

当時の海洋研は、窓から飛び出て12時前にテニスコートに立っていたり、研究室で焼肉パーティをしたりと、おおらかで、ゆとりがあり、自主自律のまさに研究所と言える雰囲気でした。現在ではとても無理な環境ですが、このような気風の電波研究所で、三浦さんは生き生きと仕事をこなしていたように思えますし、私も、大いに影響を受けました。心よりご冥福をお祈りいたします。