水津君ー追憶の断章

追憶の断章-水津君

2020.08.13  畚野 信義

透析をするといろんな問題が起こることは知っていた。それでも30年以上頑張った義弟を知っているだけにマダマダ大丈夫と思っていた。しかし電話が来て「水津の家内です」と聞こえた時にはピンと来て狼狽えてしまった。

水津君は1966年の春に私のいた電離気体研究室に入って来た。私が学位論文を目指して東大宇宙研の観測ロケットを使った実験で1年の1/3ほども内之浦へ行っていた頃だった。また、我が国最初の人工衛星を目指してL-4Sロケットで打ち上げる衛星「おおすみ」に搭載する電子温度計と、最初の科学衛星「しんせい」搭載の電離層観測器の担当を前室長(東大宇宙研教授)の平尾さんに頼まれて、東京にいる時も殆ど宇宙研に行っていた。お前はどこから給料を貰っているのか分かっているのかと電波研の幹部に言われる状態だった。その上に平尾さんに「一緒に来てくれないか」と言われ「イイですよ」と気軽に言ったところ宇宙研ですぐ採用が決まってしまったが、上田電波研所長(当時郵政省電波監理局長で電波研は河野次長が所長心得)が「絶対だめだ」と拒否し、後任の広野室長(後に九大教授)が河野さんに命じられて内之浦まで説得のため来るなどバタバタしていた。

その中で水津君は私を手伝うことになり殆ど毎回一緒に内之浦へ連れて行くことになった。内之浦では仕事も宿も食事も24時間一緒に生活する中でイロイロ話を聞いた。その頃優秀なブルーカラーの養成の必要性が叫ばれ、多くの大學(東大を除く旧6帝大や東工大等)に3年制の付属工業教員養成所が創られた。彼は高校を卒業した時4年制の国立大學も受験して合格していたが、東工大という名前が付いているのでこの方が良いと思い、附属教員養成所を選んだと言っていた。しかし公務員としての採用は短大卒扱いの中級だった。人生の入口での大きな蹉跌だったが水津君は「俺は田舎者だから」とそれほど気にしているようではなかった。

その頃内之浦へは鉄道(みずほ:東京―西鹿児島間の夜行寝台特急等)で行くのが普通だったが、ロケットの搭載実験機器の調整が手間取って発送に遅れるとギリギリに車(スペースモーター:室員の共同所有のレンタカー)に積んで行くことも少なくなかった。行きはスケジュールに追われていて、同乗させた宇宙研の技官達と交代で殆どノンストップ走ったが、帰りはその埋め合わせの意味もあってイロンナところ(有名都市や観光地等)に行ったり、様々なルート(九州は殆ど全部、四国も大分佐賀関→佐田岬→八幡浜→松山→高松→徳島→淡路島→明石だけでなく四万十→高知→足摺→室戸まで)を周った。上田所長はアイツらは実験に行くと何時帰るかわからんとボヤイテいたそうだが、上記のような事情があり腫れ物に触るような扱いだった。

ある時下関から山陰を回って帰ったことがあった。その時水津君の実家に寄った。彼の実家は島根県の西の端、山口県に近いところにあり(津和野の近く日原「ニッパラ」というところ)、既にご両親は無くお兄さんが農業を継いでおられた。チョットユニークなキャラクターの持ち主だったがナカナカ面白い人だった。結婚しておられたが子供が無く、「今の農家は有線放送で『今日はこの作業をしましょう』と指示された通りにやるサラリーマンのようなものです」などと言っておられた。家の前にあった木に沢山実っていた柚子を貰って帰り、種を植え、木は大きくなり、今も奈良の私の生家の山に健在だが、以来約半世紀、未だ実が成ったことがない。

私が仕事で内之浦へ行った最後は1971年9月の「しんせい」の打ち上げの時だった。その時も水津君と車で行ったがスケジュールが伸びて先の予想が付かないので水津君だけ先に鉄道で返し、打ち上げ後に私は一人で運転して帰った(日南から川崎迄フェリーに乗ったように思うが)ことを憶えている。

1972年3月から2年余り私はアメリカの国立科学アカデミーのResearch Associate(今の日本でいうポスドク)のポストを得てNASA/GSFCで働いた。

この不在の間住んでいた公団住宅(私は電波研への就職直後からロケット実験で秋田の道川海岸へ行ったが、その時ツブサに見た秋田電波観測所の構内宿舎に住む所員の職住一体、ハッキリ言って全くプライバシーの無い生活状態から絶対に公務員住宅には入らないことにしていた)の空き家を親身になって管理してくれた。空き家期間の延長(公団は原則1年しか認めなかった)から壊れた風呂桶の買い替え(当時の公団住宅の風呂は木の風呂桶だったので長期間使わなかったため乾燥してバラバラになった)までやってくれた。時々私の両親が東京へ来た時に部屋を利用していたので母は水津君を大変気に入り、結婚相手の紹介までしようとしたが関西の女性は東京へ行きたくない人が多く、あまりウマク進まなかったようである。私が帰国して割合スグに組合関係の友人(潰田君か)の紹介で結婚するからと媒酌人を頼まれた。私たち夫婦にとって初めての仲人役だった。花嫁は青森の人で本州の両端出身のカップルだった。結婚相手を初めて紹介されて会ったのは小金井公園で、アメリカ式に子供たちも連れて行き、ヒバチ(アメリカで買ってよく使っていたBBQ用の炉)や炭、タレに浸けた鳥の手羽などを持って行ってBBQをやったが、後で水津君に聞くと当時の小金井公園は全面火気禁止だったそうである。あの頃は今よりズッとおおらかだったためか運よく見咎められずに無事楽しみ、子供達も水津君とキャッチボールをして喜んでいたことを思い出す。(水津夫妻の結婚式の写真を付録に添付する。)

私は帰国後通信衛星に商売替えをしたので水津君とは別の研究室になったが、個人的には変わらず親密にして来た。特に水津君がスペースモーター(1962年1月に当時の平尾室長と3人の室員(宮崎、城、畚野)が2万5千円づつ出して買った中古車が出発点)の実質的な管理者をしてくれていたので、ドライブ(北海道一周等)、海釣り、スキーなどのイベントには何時も参加していた。最初にスキーに行った時、私は実質的に初心者だったのでスキーは借りるとしてもウェアー等一切なかったので水津君がすべて見繕って揃えてくれた。特に上に着る防寒具(ヤッケ?)は当時道路工事などの交通整理をする人がヨク着ていたカーキ色のものだった。多分当時私は子供が4人もいて経済的に余裕が無かったことを気遣ってそれに決めてくれたのだと思う。これは頑丈で暖かく、今でも冬の奈良の山仕事に重宝している。海釣り(片瀬)に行った時、通信衛星、衛星計測、電波応用、企画時代、その後もズット、個人的に本当に親身になってイロンナことを計らってくれた。私は企画部長になり人事に関わるようになってからはスペースモーターでスキー等に行くのをやめたが、私の長女も三男(末子)も水津君にスキーを教わった。

私は水津君には個人的に全幅の信頼を置いていた。仕事上の上司と部下から始まったが友人というより兄弟のような付き合いだった。

その後水津君はレーダ技術を使った様々な計測の研究等に関わり、企画部の課長、関西支所の研究調整官を経て退職したが、第2の人生の電波技術協会時代の活躍は目覚ましかった。丁度TVのディジタル化への過渡期で、電波業界はテンヤワンヤの大騒ぎだった。電波技術協会はその実務を中心となって全国的に担い、各地に多くの組織と技術者を時限で急増させて行った。水津君はその実質的な責任者としてめまぐるしいというより獅子奮迅の活躍だった。水津君がいなかったら日本の地上TVのディジタル化への切り替えはあれほどにスムーズに行かなかったと認めている人が少なくない。

水津君は若い頃運動が得意で、高校時代短距離走では国体レベルの活躍をしたそうだが、多分それが原因で若い頃から腎臓に問題を抱えていた。その後やや回復して小康状態を保っていたが電波技術協会を退任した後で透析を始めることになった。それが原因で寿命を縮めたと思われる。電波技術協会時代に心筋梗塞を起こした。その時は職場だったので処置が早く事なきを得たが、あの頃の過労と心労が影響したのではないかと思われる。

近年は時々国分寺の豆腐レストランなどで一緒に食事していたが、まだ先があると思っていた。弟を亡くした気持ちである。

今、私は水津君との長い付き合いの中で彼が私にしてくれただけのことを彼にしてやれなかったことが心残りである。

結婚式での水津君夫妻

披露宴

2008年親ぼく会懇親会(水津君はまだ元気そうである)

(森川、水津、立野)

2016年親ぼく会懇親会(畚野、水津)