高橋君ー追憶の断章

追憶の断章-高橋鉄雄君

2020.08.28     畚野 信義

私は何時高橋君と初めて会ったかハッキリ覚えていない。何時の間にか全電波の研究所支部長になっていた。親しくなってから聞いたところによると、高卒後秋田電波観測所で採用され、その後鹿島支所を経て小金井本所に移ったそうである。彼をハッキリ認識したのは、企画課長になって組合(全電波研究所支部)との会見(交渉)の場に事務局として出るようになった時である。

その年(1982年)は当時の鈴木内閣が人事院の公務員給与の改訂(引上げ)勧告を実施しないことを決め、それに抗議する闘争拠点の一つとなったRRLでは、時間内食い込みの早朝職場大会、様々な抗議活動、それに対する警告や処分が繰り返されてカナリ荒れた雰囲気だった。会見では高橋支部長が大声で一方的に捲し立て、次々と質問(例えば人事院勧告無視についてひとり一人自分の意見を言えと詰め寄る)を浴びせかける。官側(所長、次長、各部長)は全く黙り込む(全く太刀打ち出来ないのか、ダンマリ作戦か)という状況があった。幹部はここで下手なことを言うと本省から叱られるというようなことを恐れていたのかと思った。しかしこれではマズイと思っていた。数年後企画部長になった時も同じ場面があった。支部長は相変わらず高橋君だった。私は「このくらいは上げて貰いたい。でなければいい人が来なくなる」と答えた。これで空気が変わったと感じた。私の発言について苦情は何処からも来なかった。私はこちらから積極的に高橋君と連絡(意見交換)することにした。彼はナカナカシッカリした考えを持ち、TPOを考えて合理的に振る舞っていることが分かった。また強い個性だけでなく優れたリーダーシップのある人物だった。その後中曽根補正や関西支所設立等研究所の財政環境等が好転して行ったこともあり、険悪な状況が起こることは無かった。研究所担当の通信政策局の総務課長は関西支所新設で遠隔地への大規模の人事異動に全く組織的なトラブルが無いことに感心して、国鉄民営化に伴う地方の余剰人員採用に協力して郵政省が得た増員枠の全員(6名)をCRLにくれた。関西支所がスムーズに発足し、その後優れた成果を出すことが出来た原動力となった。高橋君の判断で組合側からのクレームが一切出なかったことが大きい。

私は2003年7月にCRLを退任して渡米し、NASA/GSFC,テキサスA&M大、メリーランド大を兼任してアメリカに2年余り住んだ。2004年の夏ごろ高橋君から手紙が来て、娘さんが小金井市の高校生の留学派遣(ホームステイ)制度に選ばれて1年間アメリカにおり、秋に6ケ月が過ぎた時にホストファミリーが替わるので、夫婦で挨拶とお礼にアメリカへ行く。その機会に私のところへ寄りたいと言って来た。ボルチモアの空港へ迎えに行った。娘さんとニューヨークを楽しみ、娘さんはホームステイ先(中西部の州の都市近郊)へ帰り、夫婦二人で来た。英語があまりよく聞き取れないのでと高橋君らしくないチョット弱気(不安そう)な感じだった。奥さんは初対面だったが彼女は落ち着き払っていた。当時のアメリカは景気が低迷し、治安が悪くなっていた。比較的大きな家の集まった所謂高級住宅地でないと物騒だというので私たちは夫婦二人だったが、地下1階半地上2階建ての5ベッドルームの家(メリーランド州ローレル)に住んでいた。そこに泊まって貰うことにした。2-3泊したように覚えている。メリーランド州の首都のアナポリス(海軍兵学校がある)やワシントンのモール(航空宇宙博物館等幾つかのスミソニアン博物館、ワシントンモニュメント、リンカーンメモリアル、桜の時期でなかったがタイダルベースン、ジェファーソンメモリアル等)を案内した。終日一緒にいると高橋夫婦は全くのカカア天下(何でも奥さんの言う通り)であることが分かった。組合会見での彼の第一印象からは想像も付かなかった。奥さんは度胸の据わったというか何時も落ち着いていて高橋君と仲の良い、感じのいい人だった。2階のゲストベッドルームを使っていたが、風呂はゲストバスルームの他にジャクージーの付いたメインバスルームも提供した。ある時彼女が風呂から出て降りて来て、食事をしながらバスタブで溺れそうになったと話し始めた。アメリカ人は大男が多いのでバスタブは私でも足を充分延ばせるサイズである。湯を入れながらバスタブに浸かっていたら突然体が浮き上がったそうである。泳ぐには狭く溺れそうになったが、「ここで溺れてなるものかと力一杯、死にもの狂いに暴れて起き上がったと言った時は肝っ玉母ちゃんの面目躍如だった。s

高橋君は貧しかった生家の様子や彼の若い頃の話(思い)をイロイロしてくれた。お互いの立場が変わったこともあって、より親しい(本音を話せる)友人に成れたと思った。

それ(私の帰国)以後はお互いバタバしていて(私は→東大→東海大→SCAT→ATR、高橋君は企画部門への転身、CRLの法人化等)連絡があまりなかったが突然阿部君から「鉄ちゃんが膵臓癌で府中病院へ入院した」と連絡があった。病院へは2回見舞いに行った。最初の時は「俺は未だ定年になっていない。年金を一回も貰わないで死ぬつもりはない」と意気軒高だったが2回目の時は亡くなる少し前でかなり弱っていた。しかし懸命に病気と闘っている様子が見えた。彼らしいと思った。

惜しい人物を無くしたと心底思った。私が電波研創立50周年記念誌に書いたことを気にしていた。電友会の設立にも随分力を注いだと聞いている。

彼はもう少し早く生まれ、大学を出て電波研に入っていたら間違いなく所長になった人物だった。

私の住んでいたメリーランドの家の前

ダイニングルーム

ワシントンモニュメント前

アナポリス海軍兵学校

(構内を見下ろす高台にある国旗掲揚台前)

電友会協力者のご苦労さん会?

(武蔵小金井駅前「真澄」2階)