高橋耕三さんを偲んで

高橋耕三さんを偲んで

2023年10月26日、RRL/CRL/NICT親睦会 Home Page に高橋耕三さんの訃報が掲載されました。2023年5月6日に逝去されたとの連絡が、奥様から技官名簿NICT事務局宛郵便であったとのことです。1956(昭和31)年度採用とのことですので、おそらく90歳くらいで亡くなられたと想像します。とても驚くと共に、高橋さんには、入所以来大変お世話になりましたので、追悼文を記憶に基づいて書かせていただきます。何分、車の免許更新時に認知症検査を義務付けられる年齢になりましたので、もし、記憶違いの記載があればお許しください。

私は、高橋さんには、電波研究所入所直後の昭和48年4月から昭和52年9月まで衛星研究部衛星管制研究室でご指導いただきました。また、昭和59年3月から昭和60年6月まで鹿島第一宇宙通信研究室長として、当時鹿島支所長だった高橋さんにお世話になりました。その後、私は、平成9年7月に標準計測部長になりました。当時、退職後も高橋さんが標準計測部時空技術研究室に居られ地震の予知の研究をされていたようですが、このときは、お話しすることも殆どありませんでした。私の手持ちの資料を使ってわかる範囲で纏めた、電波研究所におけるご経歴を以下に示します。不完全で誤りが含まれている可能性があることをお断りしておきます。参考までに、私が高橋さんとご一緒した期間も併記しています。

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1956年(昭和31年)電波研究所入所

昭和43.02.01~昭和44.09.30 鹿島支所第二宇宙通信研究室長

昭和48年 衛星研究部衛星管制研究室で主任研究官(岡本: RRL入所 同研究室で指導を受ける)

昭和51.5.10~昭和54.7.13 衛星研究部衛星管制研究室長

昭和54.7.14~昭和57年7月 衛星通信部第三衛星通信研究室長

昭和58.05.16~昭和60.06.30 鹿島支所長(岡本: 昭和59.03.01~昭和61.03.30  鹿島支所第一宇宙通信研究室長)

昭和60.07.01~平成5年3月31日 第二特別研究室長 

平成5年度 退官 

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繰り返しになりますが、私は、昭和48年4月に電波研究所に入所しました。所属は、衛星研究部衛星管制研究室でした。最初にご指導いただいたのが、当時衛星管制研究室主任研究官だった高橋耕三さんでしたので、非常に印象が強いです。当時研究室には、亡くなられた中橋信弘さん(室長)、高橋耕三さん、甲藤隆弘さんが居られ、私を含めて室員4人の小さな研究室でした。部屋は2号館2階の大部屋で、電離層衛星研究室の亡くなられた船川謙司さん(室長)、小川忠彦さんも同居しておられ6人部屋でした。午後3時には、中橋さんの音頭で全員でラジオ体操をしていました。船川さんや高橋さんは、船川さんが囚人服と呼んでおられた支給された鼠色の作業服を着ておられました。高橋さんは、その服を着て自転車通勤しておられたのではないかと思います。毎日、弁当をもってきて、昼休みにはそれを食べて、食後は、天井からつり下がった大きな金属のフックにぶら下がって体操をされていたと記憶しています。科学朝日を愛読されていたと思います。面白い記事が見つかると、どう思うかと議論を吹っ掛けられることがありましたが、私にはとても難しく回答できないことが多かったです。

いつ頃からか、昼休みには、テニスをされていたと思います。後に私も昼休みにテニスをするようになり、高橋さんとペアを組んで郵政省のテニス大会に出たことが何回かあります。大抵一回戦で負けていましたが、たまに勝って二回戦に進出したこともありました。夏の暑い中、上半身はだかで、高橋さんがテニスを練習していたときに、サービスを打つ自分のフォームについて、テニスの上手い手代木さんに質問したことがありますが、手代木さんから、フォーム以前にユニフォームを着てくださいと言われて、皆で大笑いしたこともありました。

昭和48年度の研究計画書の項目名には、「人工衛星の軌道と姿勢の研究」と書かれており、主任担当者は高橋耕三さん、担当者は、高橋耕三さんと岡本謙一と記載されています。私は、大学時代とは、まったく異なった分野の研究を開始することになりました。衛星の軌道と姿勢については、力学の応用には違いないのですが、全く何も知らないことばかりですので、その分野の教科書を読み始めました。高橋さんから、軌道については、Escobal のOrbit Determination という教科書をまた、姿勢については、Thomson のIntroduction to Space Dynamics という教科書をお借りして勉強を開始しました。読んでわからないところは、高橋さんにその都度質問していました。あまりにも頻繁に質問するので、遂に「質問は、纏めてしてください」と言われてしまいました。尤もなことで、高橋さんの貴重な研究時間を中断させてしまい大変申し訳なかったです。高橋さんは、太陽同期軌道、回帰軌道、同期軌道の解析や、人工衛星の食の簡易計算法の研究、電離層観測衛星の打ち上げ方式の検討など、の様々な研究をされていました。傍から見ていても、頭脳明晰で、厳しい研究態度で研究に向かっておられることが分かりました。

NICT NEWS 2010(平成22)年11月号 No. 398 には、浜新一さんが、『準天頂衛星初号機「みちびき」打ち上げられる』との記事を書かれていますが、その中で、『…傾斜軌道を利用すれば、日本のような中緯度地域にいるユーザでも衛星を高仰角で見ることができ、ビルの谷間を走る移動体でもシャドウイング(物体の背後になることによりその箇所に電波が到達しない現象)にわずらわされずに通信・放送が享受できる―日本では1972年に、電波研究所(現NICT)衛星管制研究室の高橋耕三氏が提案したのが発端です。…』と書かれています。これは、「高橋耕三 人工衛星の軌道とそれに適したミッション 電波研究所季報 Vol. 18, No.97, pp. 345-353, 1972年7月 」の中に記載された、同期衛星のことだと思います。高橋さんは、「…同期衛星軌道の傾角、離心率、近地点引数を適当に選べば、その軌跡は約4時間程度なら高緯度でもほぼ静止するようにできる。近地点通過時刻と昇降点赤経以外は同じ軌道要素の衛星を数個等時間間隔で赤道上の同一地点を通るように軌道上におくと、高緯度地方の衛星による連続観測、連続通信などに非常に便利であろう。…」と述べられており、軌道傾斜角(傾角)が45度と63度の場合の同期軌道の軌跡が示されており、45度に近い同期軌道の方が適当と思われると述べられています。このことからも、時を越えた高橋さんの研究の先見性がうかがわれます。

私事になりますが、この頃私が軌道について勉強したことは、後に大阪府立大学工学部航空宇宙工学科の先生になり、学部1年生の学生に「宇宙航行力学」という科目を講義するようになったときに大変役に立ちました。

昭和49年度あたりから、中橋さんが中心となって「応用技術衛星の研究」が始まり、ミッションの一つとして、私は衛星リモートセンシング技術の調査を始めました。また、この頃から、昭和52年度にかけてCS(実験用中容量静止通信衛星)、BS(実験用中型放送衛星)の運用管制のハード、ソフトの整備を、管制研究室が担当することになりました。CSだったと思うのですが、高橋さんから運用完成ソフトの仕様書についての書き方について、ソフトは、入力、出力、機能がはっきり書いてあれば良いのだと、教わったことがありました。このことは、後にECSのソフトの仕様書案を担当したときに、役に立ちました。高橋さんは、研究以外の業務的なこともあまり苦にされずにこなしておられました。CS, BSの業務に関わってからは、メーカーとの打ち合わせや、鹿島支所への出張などで急に忙しくなりました。この頃、高橋さんは、黄色い車に乗って通勤しておられました。鹿島への出張のときに、高橋さんの車に同乗させて頂いたこともありました。制限速度 30 km の道路を60 km で走るのが一番難しいとか言っておられたとのを思い出します。

昭和51年5月に中橋さんが、調査部通信調査研究室長へ異動されましたので、高橋さんが衛星管制研究室長になられました。また、同年10月に甲藤さんがNASDAに出向されましたので、研究室は、二人になりました。建物は、3号館の4階に変わっていたのではないかと思います。この頃、ECS(実験用静止通信衛星)の35GHz受信機のエンジニアリングモデル(EM)が、隣の通信衛星研究室に置かれていました。そのうちのNEC製のEMを使って、マイクロ波ラジオメーターの組み立てをしてみました。通信衛星研究室には、フェライトスイッチを初め、35GHzの導波管部品が揃っていました。高橋さんも、鹿島時代に電波天文の観測をされていたからでしょうか、興味を持っていろいろご指導くださいました。何とか、マイクロ波ラジオメーターが組上がって、理論感度に近い温度分解能が得られました。これを契機に、本格的に宇宙からの電波リモートセンシングの研究を志すようになりました。私は、昭和52年10月に、電離層衛星研究室に異動して、昭和53年度から始まった、新規大蔵予算による、衛星搭載用マイクロ波・ミリ波レーダの研究に従事することになりました。これで、一旦、4年半に及ぶ高橋さんのご指導を離れることになりました。

高橋さんは、昭和54年7月13日まで、衛星研究部衛星管制研究室長をされたようですが、昭和54年7月14日に、組織改革により、衛星研究部が、衛星通信部と衛星計測部に分かれたために、以後、昭和57年7月まで衛星通信部第三衛星通信研究室長をされることになりました。

高橋さんの衛星通信部第三衛星通信研究室長時代のことは、RRL/CRL/NICT親睦会のプロフィール記事の中で、手代木さんが、書かれているので、引用させてただきます。『昭和54年に衛星研究部が衛星通信部と衛星計測部に分かれ、私は衛星通信部の第三衛星通信研究室配属になった。室長は高橋耕三さんだった。非常にユニークな人で、いわゆる「電波研的な研究者」の典型であった。独自にいろいろなテーマを見つけ出し、コツコツと研究するタイプであったが、事務処理能力にも長けていた。求められた資料をすぐに作成し、処理するのである。私は特にはこういう仕事が苦手だったので、感心して眺めていた。昭和54年に「衛星用マルチビームアンテナの研究開発」の予算が認められた。私にとっての真の自分の研究が始まったと思っている。ただこの予算要求書を書いた記憶がないので、高橋さんが全部やられたのだろう。この年に中條渉君が、翌年には田中正人君が加わって、研究体制も充実してきた。昭和57年には第三衛星通信研究室の室長に任じられた。』

衛星通信部第三衛星通信研究室長の仕事の一つとして、衛星利用捜索救難通信システム (Search and Rescue:SAR) の研究をされたようですが、それについては、電波研究所ニュースNo.63 (1981.6) に、「衛星利用捜索救難通信システム」と いう題で、また、同ニュースNo.70 (1982.1) に、「短信 衛星利用捜索救難通信システムの海上実験」という題で、さらに同ニュースNo.76 (1982.7) に、「COSPAS-SARSAT研究者会議に出席して」という題で書かれています。なお、古い電波研究所ニュースは、現在でもNICTのHome Page から読むことができます(NICTについて→出版・書物一覧→NICT NEWS→CRL NEWSバックナンバーの順に検索する)。通信総合研究所五十年記念誌の電波研・通信総研の思い出集の p.307で、「衛星利用捜索救難通信システムの海上実験」 という題で、INMARSAT衛星中継の1.6 GHz衛星EPIRB評価国際実験に、昭和57年11月~昭和58年4月に参加されたことが書かれています。恐らく、衛星通信部第三衛星通信研究室長の最後のお仕事だと思われます。

高橋さんは、昭和58年5月16日から昭和60年6月30日まで鹿島支所長として赴任されました。私は、昭和59年3月1日から昭和61年3月30日まで、鹿島支所第一宇宙通信研究室(一研)室長として赴任しましたので、また、1年3か月ほどご指導を仰ぐことになりました。当時の鹿島一研は、ECSの二度にわたる打ち上げ失敗が響いて、衛星通信ではなく、残された地上施設を有効利用したリモートセンシングの研究に舵を切っていました。高橋さんは、研究予算の乏しい一研のことを親身になって考えてくださり、上司としてアドバイスするだけでなく、実際の実験にも参加してくださいました。

その様子を以前、「パラボラとともに」という文集に書いた記事から引用してみます。

『…..一研の所有している施設や鹿島支所内で使われないで眠っている施設を可能な限り利用してリモートセンシングの実験をなんでも手がけることにしました。最初に全員でやったのは、降雨レーダのシークラッタモードを利用した海面波浪状況の一か月にわたる連続観測でした。本所よりウェーブライダを借りてきて、これを海面に浮かべて波高データを連続収集すると共に、降雨レーダの海面散乱波の強度とドップラスペクトルの連続収集を行い、波高と海面散乱波の強度およびドップラスペクトルの相関を観測しました。当時の高橋支所長を初め、岡本、福地、峯野、奥山が漁船に乗って荒れた鹿島灘に乗り出し全員が船酔いになってゲーゲー吐きながら、ウェーブライダを設置したことは今となっては楽しい思い出になりました。……』

一研のメンバー全員が驚いたのは、高橋支所長が率先して荒れた鹿島灘にウェーブライダを設置する実作業に協力してくださったことでした。衛星通信部第三衛星通信研究室長時代に、衛星利用捜索救難通信システム(Search and Rescue:SAR)の研究をされたときに、非常用位置指示無線標識(Emergency Position Indicating Radio Beacon: EPIRB )の海上実験のために、ウェーブライダを設置する実験に従事されたことがあったのかもしれません。高橋さんの手際の良い指揮によって、うまくウェーブライダを設置することができました。

NASAのSIR-B(Shuttle Imaging Radar-B) 実験は、昭和59年10月に打ち上げられたスペースシャトル チャレンジャーに搭載された合成開口レーダ(Synthetic Aperture Radar = SAR) によって地球環境を観測する8.3日間のミッションでした。通信総合研究所からも、企画部第一課長だった畚野さんをP.I.(研究代表者)として、地上実験の提案書を提出し、採択されました。亡くなられた藤田正晴さんが、担当されたSARの較正実験では、メインサイトの秋田空港の他にも鹿島の海岸に近い広い土地にコーナーリフレクタを並べてSIR-Bの飛んでくるのを待っていましたが、SARのアンテナトラブルで観測することはできませんでした。重いコーナーリフレクターを沢山実験サイトに並べ、SARの軌道を考慮して、仰角、方位角を調整するのは、人数の少ない一研メンバーだけでは重労働でしたが、支所長の高橋さんが率先して重労働を共に引きうけてくださいました。そのときの写真を示します。

右から、高橋さん、岡本、福地君です。高橋さんは、本当にフィールドワークが好きだったと思います。

また、昭和60年の初めに国立極地研究所との共同研究として、一研では、南極の海氷の厚さを計測する目的のUHF帯ステップ周波数レーダの開発実験を始めました。三か月の短期間で組み立てたアンテナ以外は手作りのレーダを南極に運ぶ前に、電波暗室で実験をする必要がありましたが、高橋支所長のご尽力によって、運輸省電子航法研究所の電波暗室を二度に渡って使用することができました。お陰で、第27次南極観測隊(昭和60年11月出航)に間に合うことができました。

鹿島支所長を勤められた後は、第二特別研究室長に着任されました。第二特別研究室長時代のことは、残念ながら私は全く交流がなく知りません。但し、第二特別研究室長時代に電波研究所ニュースに書かれた文章を拝見すると、No.139 (1987.10) に、「長波及び地電流の観測による地震予知」について、また、通信総合研究所ニュースNo.174 (1990.9) に、「電界の観測による地震予知-99%以上の確率で地震前兆の電界を観測中-」との記述が見られます。地震予知の研究は、非常に重要なものですが、またほぼ不可能と言っても良いほどの非常に難しいものであります。文章の中では、高橋さんは、『今後も確実に起こる大地震に伴う被害を、可能な限り小さく押さえるために、種々の予知手法の中でも確実性の高い地震電流、長波による予知の研究を着実に推し進める必要がある』と述べられておられます。その信念のもとに、同じテーマに関わっておられた、科学技術庁防災科学技術センターの方々や、海外の研究者の方々と研究を進められたのだと思います。平成5年度に定年退官されたと思うのですが、通信総合研究所ニュースNo.234 (1995.8) に、「電磁波による地震予知」との記述が見られますので、その後も、標準計測部時空技術研究室に籍をおかれて、地震予知の研究を続けられたようです。

高橋さんは、純粋な子供の様な好奇心を持って、電波に関する様々な研究に、とりわけ、人の生命に直結する、捜索救難通信システムや、地震予知の研究に取り組まれたのだと思います。研究に取り込む真摯な姿には、多くの教えられることがありました。

丁度、この原稿の推敲をしていたときに、能登半島で大地震が起きました。地震三要素(何時、何処で、どのような規模)の予知は、不可能と言われていますが、少しでも地震予知につながる研究の進展があることを期待したいと思います。高橋さんが心血をそそいで行われた地震予知の研究成果については、私は全く知りませんが、丁度、準天頂衛星の研究の先駆けとなる同期衛星軌道の研究を約40年前にされたように、高橋さんは、将来の地震予知の研究の先駆的な研究にされていたと後世に評価されるようなことになれば楽しいなと思います。心からご冥福をお祈り申し上げます。

岡本謙一 (2024年1月15日)